エインセルサーガ外伝・【ロストプリンセス】第一話

 

雨である。

森林の国で知られるロートヴァルトの外れに位置する、カープフォートにはこの時期になると決まって頻繁に雨が降る。

稲作を主な収入源にしているこのカープフォートにとっては、この雨季という時期はまさに恵みの雨であり、不平を漏らすのは外で遊ぶことが出来ない子供達だけと言える。

しかし、ここに一人。カープフォートにおいてこの豊穣の粒に不平を漏らす男が居た。

それは、意外な事に子供ではなく、この雨の重要性を知っているはずの大人だった。

だがよく見てみると、彼は村の者ではないということが分かる。このカープフォートに住まうものは大方、麻で作られた服を着ているのだが、彼はこの雨の中を歩いてきたのだろう、黒い外装を羽織っており、背中には動物をなめした皮で包まれた、細い筒のような物を背負っている。

その姿の異様なこと。雨が降っているからこそ、目立つことなく。騒がれること無くこうして村を歩けているが、普段であれば遠巻きに眺められ、運が悪ければ村の豪傑達の手により、事情を聴取されるかもれない。

そんな黒尽くめの男は村の中央まで歩くと、水音を立てながら辺りを一望する。

男の視界の先には皮を幾重に巻かれたテントが、雨を滲ませること無く弾き、藁葺きの屋根を雨から守っている。

このカープフォートではこの時期になると、藁で出来た家を雨から守る為に、水馬(ケルピー)と呼ばれる河付近に生息する野生の馬の皮をなめしたもので天蓋を作るのだ。

その男は少し大きめの天蓋を張っている家を見つけ、その下で雨宿りをすることにした。

男は自分の体にすっかり沁み込んでしまった水分を払うかのように、自分の外装を手で払う。無論、そのような行為では乾くはずも無く、男はそれを諦めてしまったようだ。

天を見上げれば一面の灰色。天が差し込む箇所は無く、当分この雨は止むことが無さそうだ。

せめて、この天蓋の素材と同じものを着ていれば、と男は思いながら頭に座っている水分を乱雑に飛ばす。

余談だが、この水馬の皮は水を弾くが通気性は悪く、それをなめして加工すればそれはどちらにもプラスに働き、衣類にすると酷く不快を感じる材質だ。

さて当然の話だが、家には人が住んでいるのである。住んでいないのならばそもそもこの場所に天蓋は張られないだろうし、とっくに潰されているだろう。このロートヴァルトには四季という珍しい気候の変化があり、季節が流れれば時に雪が降るときがある。その際に雪の重みで家が潰されてしまう可能性があるため、人が住まなくなった家は早々に解体されるのが、この地方のお約束なのだった。

そのようなわけで、男が今雨宿りしている家には当然のように住んでいる者が居るわけであり、村人ではない彼を見て、たった今家に駆け込んできた少女が、男の姿を見て驚くのは無理も無いことだと言える。

一瞬、二人はあまりに突然な事に固まってしまう。

その時、男まるで夕日が反射する小麦畑のような光景を幻視した。

雨雲が掛かったこの天気で、そのようなもの幻視してしまったのは、目の前に現れた少女の髪が現実離れする程に美しい為だった。それは田舎娘が持つには実に不相応なもので、あまりにも美しい。美しすぎる金色。

田舎の娘相応に焼けた肌に、痩躯な体躯。しなやかに伸びる指はまるで小枝。そう言えば聞えは良いのだが、単に貧困しているだけかもしれない。

だが、それよりも彼の目を引いたのは、この国の象徴とも言える緑を宿したその瞳だった。

まるで芽吹いたばかりの若葉のようなその瞳は、宝石に例えるならエメラルドか。

その金と緑の混合(コントラスト)は、きょとん、と男に対して口を開いた。

「どなたですか?」

少女は驚きを一瞬で持ち直すと、黒い外装の男に尋ねる。

「俺はジークってんだ。訳あって旅をしてんだが、ついお天とさんに嫌われちまってな。お前さんの家でこうして、お空の機嫌が治るのを待たせてもらってるっつーわけだ」

屈託の無いジークの表情。一瞬雨が上がったかのように少女が錯覚するほどに、その笑顔は晴れやかだった。きっと男はこのような性格なのだろう。まるで太陽のように雄大な。

「ジークさんですか。あ、すいません。私としたことが。私の名前はファイムと言います。初めまして、ジークさん」

「ファイ、ム? お、おお、ファイムか。いい名前だな。よろしく!」

ジークはそう言いながらファイムに手を差し出す。彼女はそれを躊躇いもなく握るとお互いに笑顔を作った。お互いに人見知りをしない性格なのか、一瞬でお互いは警戒をすっかり解いてしまっていた。

田舎だからだよなあ、とジークは思う。今の都ではこのような無警戒な子供、一人も居ない。無邪気であり純真無垢である子供ですら、今の都ではすっかりなりを潜めてしまっている。それは横行する犯罪から身を守る為に、親が一人で外を出歩かせないからである。子供が日中でも一人で歩けないなんて、間違っている。ジークは改めてこの目の前の少女ファイムを見て思った。

ずっと握手したまま、しかも次第に表情が曇っていくジークを見てか、ファイムは不思議そうな顔をする。その表情が鏡合わせになったのか、ようやくジークは我に返った。

「ジークさん。具合でも悪いのですか?」

「いや、そんなことはないだ。ただ少し疲れてしまっているのかもしれないな」

ジークは苦笑する。

そう、現に彼は疲れていた。

自分の直属の上司であり、親の次に尊敬している人間から指令を受けたのは一ヶ月程前だった。

その指令とはこのロートヴァルトに住む多くの民の運命を左右するような、重要なものであり、そのような指令を受けたジークは、自分が尊敬する彼からどれほど信頼されているのかを、痛く痛感し、そして感動に身を浸しながらその指令を二つ返事で受けたのだった。

ただ、その指令のどれほど困難なことか。

初日は自分がどれほど重大な任務を遂行しているか。という類の高揚感と緊張感。

一週間後には改めてこの任務の難しさ、そしてこの任務の重要性を再確認し。

二週間後で彼はようやく、この国の中から一人の少女を探し出すという難しさに直面し。

三週間後になると、今まで騙し騙しこき使っていた自分の体が、いい加減に纏まった休憩を欲している事に気付いた。だが、この任務は一刻を争うのだと十分に自覚していた彼は、もう少し自分を騙すことを決め。

一ヵ月後には、ロートヴァルトで百騎長を勤めていた程の豪傑である自分でも、度重なる強行軍に重大な任務を帯びているのだという心労にようやく膝を折ることになった。

そして彼はただ一人の少女を探していたわけではなかったのだ。

男であろうと、護衛をつけずに一人で旅をすれば(馬を使ってはいたが)、随分と高い確率で野盗に出くわす。農民が落ちぶれて犯罪に走ったような者が大多数の野盗なんかには、彼は後れを取ることは無かったが、その顔に似合わない高潔さと、元来彼もまた同じ百姓の出身であることから、彼らを殺めることは出来ずに、加減して戦うことになる。

結果、いつもの倍の労力を、心労を背負うことになったしまった彼は、任務を受けて一ヶ月と半月経った今日。この村にたどり着き無駄な消耗を避けようと、休憩をすることにしたのだった。

定例の報告まで後一ヵ月半。同胞達には負けまいと胸を張ってアジトを出た頃を懐かしみながら随分自分も旅慣れたものだと、ジークは再度苦笑した。

自分と同じように任務を帯びたものは、もう達成しているだろうか?

「ジークさん。それでは、家で休んで行ってください」

まるで花のような、聞き心地の良い声にジークは我に返った。つい過去を懐かしんでいたようだ。まだ一ヵ月半しか経っていないというのに。

「良いのかい? お嬢ちゃん。自分で言うのもなんだが、こんな得体の知れないような、物騒な強面を招いても」

ジークのそれに、ファイムはまるで花弁が開いたかのように笑った。

「大丈夫です。母は常に人の痛みの分かる人間になれと言いますので、ここでジークさんを追い出したりすれば、それに反します。それに、ジークさんは怖くないです。小熊みたいで愛嬌がありますよ。それに、お嬢ちゃんじゃありません。ファイムです」

熊に例えられたことはあるが、それを愛嬌があると言ってくれた女性は、ファイムが初めてだった。

「ガハッハ! そうかい、小熊か! それは良いな!」

思わず大笑いしてしまったジークは、その大きい笑い声でファイムをつい驚かしてしまった。

「それじゃあ、少し休ませて貰って良いかい? ファイムちゃん!」

「はい、どうぞ。狭いですが御もてなしさせていただきますね!」

その堅苦しい言い回しは、村人にしては十分だとジークは苦笑した。きっと滅多に訪れることの無い客人に緊張しているのだろうと笑いながら、ジークは藁葺きの屋根の中に入っていった。

 

 

 

「お母さん。ただいま帰りました!」

ファイムは元気に家に入るなり声を上げた。

「おかえりなさい。先ほどから家の前で話し声がしていたのだけど?」

そうファイムに返事をするのは、彼女の言葉をそのまま取るなら母親なのだろう。

ただ、彼女を見てジークは何か違和感を覚えた。その正体を考えながら、ジークはファイムと彼女の母親とを見比べた。そして、ようやくその正体に朧気ながらも近づくことができた。

それは、娘と母親の髪の色。そして目の色は明確にも違うのだった。

母親は黒い髪を持ち、茶色の瞳である。

故に、彼女を見たジークがどこか違和感を覚えるのは当然であった。

髪色も違えば瞳の色も違う。それは父方の血を色濃く継いだのだと思えば、まだ納得できる範疇だろうが、その母親というのが異様に若いのが真の意味での違和感の正体であった。

若いと言ってもそれはジークの目線での話で、彼女の歳は自身と同じくらいに見える。ただそれは、裏を返せば十台中ごろに見えるファイムが娘だという事実から、どこか矛盾を内包してしまう。それは、十台で身篭っていないといけないことになる。

確かに、元服は十六であるし、彼女が自分と同じ三十だとして、ファイムを十四とすれば計算は合うのだが、母親はどこかもっと若い気もするし、ファイムはファイムでもう二つほど年齢を帯びている気がしてならない。

そこでジークは、彼女達は血が繋がっていないと判断した。それ一番説得力ある気がするのだ。このご時世柄、親と今生の別れを迎えてしまう子供だって大勢居る。それがこのような田舎なお更だ。

「あら? その方は?」

ジークが確認するよりも遅れて、母親がジークの姿を確認する。

「この人はジークさん。家の前で雨宿りをしていたから――」

「それで、お招きしたのですね?」

「うん。――ダメかな?」

「いえ、立派ですよ。さすがファイムね」

えへへ、と照れるファイム。まるで本当の親子のような気がしないでもないが、やはりどこかで作り物な所を感じてしまうのは、彼女達の容姿があまりにも違うからだろう。

そして、何故かこの親子は対等なのだ。

言動や関係を、言葉の端々から。それこそ断片的にだが。拾っていく限りでは、親子のような自然な上限関係は無く、あくまで対等であるかのように感じてしまうのであった。

それは真の意味で親子ではないのであろうという、ジークの考察を強くするのに拍車を掛けるには十分だった。

孤児同士なのかもしれないと、ジークはぼんやり考えていると、二人がジークの事を見ていることに気付く。特に母親の方はそれが顕著だ。

そして彼は、それにより二人のやりとりが終わっていた事に気付いたのだった。

「俺、いや、私はご紹介に預かりました、ジークと申します。お気軽に熊さんとでも」

そう言ったジークが、がおー、と言ってみせると、ファイムは面白かったのか笑い出し、母親もそれに釣られてか苦笑した。

「よろしくお願いしますね、熊さん。私はヒルデと言います」

ヒルデはそういうと、ジークとファイムを部屋に招き、囲炉裏の前に座らせた。

そこで初めて、ジークはこの家の内装を見渡す。

天井は藁で楕円に組まれており、布と革と藁が何重にも編まれている。流石にこれだけだと腐敗するからあの天蓋があるのであり、普段の生活で雨が降っても、これなら雨漏りの心配はなさそうだ。

更にこの家の中心にある囲炉裏の熱が部屋を効率良く循環しているのだろう、部屋は十分に暖かく、ジークは久々に暖を取ることができた。

都にある家の作りとは違い、仕切りは柱が無い半球のような形状の作りが、ジークには懐かしく思えた。見渡せば必ず誰かが目に付くこの環境が。

あまりにも物珍しそうに内観を眺めていたからか、ヒルデの笑い声にジークはようやく我に帰った。

「そんなにこの作りが珍しいですか?」

「ああ、自分も昔はこのような家に住んでいたので、つい」

「それでは今は都の方に? 羨ましいですわ」

ちっとも羨ましく無さそうな表情でヒルデが返事をしたのを、ジークは気付かなかった。

そして、その答えにジークは苦虫を潰したような表情になってしまう。

「いえ、今は旅人です少しの間都に住んでいたこともありますが」

「どこへ行かれているのですか? この付近ですと、キェイルドーへの国境がありますけども、あちらの方へ?」

「いえ、さすがに国境を越えることはしません。少し探しものをすね」

「それで旅を? そうですか。もう少しお待ちください。もうすぐに湯が沸きますので」

「いやいや、お気遣い無く。こうして雨風を凌げるだけで十分ですので」

「ジークさんこそお気遣い無く。お客様を持て成さないで追い返したともあれば、私達が恥を掻きます。客を十分に持て成すことができない家族だと私達を侮蔑なさいたいなら別ですが」

そう言われてしまったら、施しを受けないといけなくなる。ジークは観念したように、それではいただきます、と苦笑した。

しばらくして、中央の囲炉裏に置かれていた青銅が水を吹きこぼすのを見計らい、ヒルデが木製のカップにお湯を注ぐ。

「申し訳ありません。生憎茶葉を切らしてしまっていまして」

そういう彼女の手から、ファイムを経由してジークへとカップが渡る。中を見ると確かにお湯だけであった。

「ごめんね、ジークさん。いつもは再乾燥させた茶葉を使うだけど、もう随分薄くなっちゃってたから、この間捨てちゃっただ。この雨季が終われば、またお茶を作れるだけど」

「いや、そんな気遣ってくれずとも良いさ。冷えた体には温かい物だけで十分にありがたいし、何より俺は舌が馬鹿でね。そんな奴にお茶なんて勿体無い」

ジークをそう言いながら、カップのお湯を少し口に含み、そのあまりの熱さに軽く火傷しそうになった。

「熱いですから、気をつけてくださいね」

そんな当たり前のことを注意しないといけないとは思わなかったのだろう、ヒルデが付け足したかのように言う。

「ッツー。でも、美味い! ありがとう、ファイム。お前のおかげでこんなにも美味しいお茶が飲めた」

「え? でも、茶葉なんて――」

「ファイム。それよりも先に言う事があるでしょ?」

ヒルデは静かに微笑みながら、同じくカップの白湯を冷ます。

「あ、えっと。どういたしまして、ジークさん!」

その元気な彼女にジークとヒルデは笑顔で頷いた。

「さて、そうだな。こんな美味いもん、馳走になっただ。何かお礼をしないと!」

「いえ、そんな。お礼欲しさに持て成しているわけではないですから!」

「そうは言っても俺の気が収まらねえ。何か俺にできることはあるか?」

ファイムは何を言っても無駄だと悟ったのか、ジークの提案に、うーん、と唸り始めた。

「あっ、そうです! ジークさんは旅人ですよね? それじゃあ、旅のこと話してください!」

「なんだ、そんなことで良いのかい?」

「この子はこの村から出たことありませんから。それだけ外の世界に興味を持っているのでしょう。ジークさん。どうか話してやってもらえませんか?」

「そんなことで良いなら、お安い御用さ!」

ジークはそういうと、話を始める前に舌を濡らそうとしたのか、カップのお湯を盛大に飲み、実に盛大な声で、あちい! と叫んだ。

その光景に二人は思わず笑ってしまったのだった。

 

 

 

それからジークは、旅先で見た様々なものを語ってみせた。

まるで道のように大群を成して移動するダンゴ虫の話では、道だと勘違いしてダンゴ虫達の上を半日ほど歩いてしまったこと。

森に飛んでいた綺麗な蝶の話では、蜂蜜を取っていた熊の周りを集団で蝶達が飛ぶと、何故か熊が倒れてしまい、その隙に蝶達が蜂蜜に群がったという奇怪なこと。

とある町で生まれた料理の話では、水の中に香辛料をこれでもかというぐらいに入れ、野菜を煮込む料理が流行っていており、それを葉っぱの皿の上で米と混ぜて食べるのだということ。

他にも様々なジークが自分の旅を通して見てきたものを、熱に魘されたかのように話した。

そしてそれをファイムは同じように、時には息を呑み、大いに笑い、恐ろしがり、そして羨ましがりながら聞いていた。

その隣では、ヒルデがファイムの喜ぶ様子を見て微笑んでいるのだった。

「そういえばジークさんは、今夜の宿はどちらに?」

ジークが東から来たさすらいの料理探求家、ユタカという人物の話をしている最中に、ヒルデは話を中断させるかのように聞いた。

その言葉にジークは入り口から外を窺う。外はすっかり日が落ちてしまっていた。もう既に雨も上がっている。

「いえ、まだ決まってはいないです。ファイムがあまりにも聞き上手だったから、つい話しこんでしまった。そろそろお暇しないと」

ファイムがあまりに面白そうにジークの話を聞いてくれるから、つい話し込んでしまったのだった。

「もう行っちゃうですか? もっとお話聞きたかったですけど」

「ファイム。あまりジークさんを困らせてはいけませんよ。ただ、お聞きしたのは、まだ宿が決まっていないのなら家に泊まっていかれてはどうかと思いまして」

「あ、母さん、それ名案だね! うん、そうしなよ、ジークさん! 私まだジークさんのお話聞きたいし!」

「いや、さすがにそれは――。それに若い女性二人の家に、見ず知らずの男を泊めるのもどうかと――」

「あら、ジークさんはそのような方には見えませんけど?」

うんうん、とファイムは頷く。頷きはするがきっと意味が分かっていないだろう。

「それでもです! それに、そこまでしてもらうには旅話だけでは足りないでしょう?」

「それでは、この女性二人しか居ない家を、一日警護していただくというのはどうでしょう? そのお礼に一日の宿を提供しますわ」

わーい、と喜んでしまったファイムに、ジークは根負けしたのだろう、思わず苦笑してしまう。

「それでは厄介になります。ただ村の前に馬を待たせているのです。村にそのような不穏な輩は居ないとは思いますが念のため。この村に厩舎や馬房などありますか?」

「さすがに厩舎はありませんが、村長に言えば、一日くらいは預かってくるかもしれません。都や町に野菜を売りに行く際に乗る、村で共有している馬が三頭程居ますので」

「じゃあ私、今から預かってもらえるかどうか聞いてくるよ」

そういうや否や、ファイムはさっさと家を飛び出してしまった。ジークが夜道は危ないからと同行しようと言い出す隙も無かったあたり、どれほど早かったのかが窺い知れる。

「大丈夫でしょうか?」

「村の中ですからね。安全ですわ」

彼女がそういうならばそうなのだろうと、ジークは思った。

「ジーク様」

一瞬ジークは震えた。様なんて付けられたからだろう。それとも一瞬にして雰囲気が変わってしまった目の前の女性を見てか。

「どうなさいました?」

「ジーク様は、都に少しの間住まわれていたのですね?」

「ああ、本当に短い間でしたが、そう、ですね」

歯切れ悪く、ジークは言葉尻を濁す。

「いつ、都を出られたのですか?」

「それは――」

何故そのような事を聞きたがるのだろうと、ジークは思った。

この女性は、何故そこまで都に拘るのだろうと。

確かに田舎の者が都に都会に憧れるのは理解もできるし、自然な気もするが。この目の前の女性はそうでない理由で。それこそ、憧れの逆の。負の感情を帯びている気がすると、ジークは思った。

彼は過去に都で兵士をしており、百人の部隊を指揮するほどの武人だ。だからこそ解る。これは直感的なものだが、生きる為にそれを磨き続けてきた彼だからこそ、目の前の女性から放たれる雰囲気に、過剰なまでの不信感。言ってしまえば嫌悪感を持っていることを、ジークは過敏に感じとってしまった。

このヒルデという女性は、何らかの理由で都に怨みのようなものを持っている。

 

それこそ、自分達と同じように。

 

「ヒルデさん。貴女は一体――」

言いかけて、ジークは家に近づく大きな足音で、ヒルデの首が横に振られるのに気付いた。

この話はファイムの前でしたくないのだろう。

「村長さん、馬預かってくれるって!」

「こら、ファイム。最初は、ただいま、でしょう」

「あ、ごめんなさい。それじゃあ、ジークさん、案内しますよ!」

ジークはファイムに急かされて、席を立つ。

その際に、既に外に出てしまっているファイムに聞えないように。二人にしか聞えないように注意の払われたヒルデの一言が、ジークの心を村の入り口までの道中、放さないのだった。

 

あの子が寝静まったらお話があります。百騎長様。という。

 

 

 

ファイムは勘違いをしていた。

自分が帰ってきた時に、二人の間に変な雰囲気(それはどういう言葉で表現すれば良いか、彼女は上手い言葉を知らなかったが)が漂っていたからだ。

彼女はその二人の間に流れていた不思議な空気を、彼女の十六という年齢上仕方ないのだろうが、恋なのではないだろうかと勘違いしていたのだった。

彼女自身、それはどういう感情であるかおおよその概要しか知らなかったが、何となくだがそういうものだと思っていた。

言うならば女の勘とでも言おうか。

無論、今回の勘は致命的に間違っているのだが、ファイムはその勘を信じて止まなかった。

ファイムの母親、ヒルデは彼女が小さいときから良く彼女に本を買い与えていた。

都に住んでいるならともかく農民である以上、本というものは。知識を得るということは。必ずしも必要なことではなく、いや。それこそ意味の無い事であり、無駄な娯楽である。先ずは飢えを無くし、働き、稼ぎ、また食わせ、そして節制に節制を重ね、雀の涙程の蓄えから、何とか年貢を上に献上する分をひねり出すことが第一なのだ。

そのような所謂生きていく上で意味の無いものにお金を捻出することなぞ、無意味なのだ。

だが、ヒルデは違った。

自分の身につけていた装飾を売ってでも、ファイムに本を(紙に書かれたものから皮に書かれたものまで節操無く)買い与えたのだった。

いつのことだったか、彼女が大切にしていた(かんざし)と、きちんと装丁の成された本とを交換していた所を見た時は、ファイムは泣きそうになってしまった。それをつけていた母は、とても美しかったからだ。

ヒルデは常にファイムに教養を、作法を、礼儀を重んじさせた。

心までは貧しくなってはいけないというのがヒルデの言い分だった。

ファイムにとってそれは度を越しているように度々思わせてきたし、今でもそう思っている。

そして、その常に自分のことだけを考え続けてきてくれたヒルデが、幸せになる機会が生まれたのだと。自分の身なりやそれこそ食い扶持を減らしてまでも、自分を向上させてくれるヒルデが、とうとう幸せになってくれるのだと思うと。ファイムは嬉しくて仕方なかった。

そう思い込もうとしているだけかもしれないと、ファイムは薄々気付いてはいるのだが。もしそれが本当のことになればどれだけ幸せなことなのだろうかと。

自分の後ろを歩いているジークとヒルデが婚姻し、まるで家族のように過ごすことができればどれだけ幸せだろうと。先ほどの旅の話を聞いていた時のように、みんなで笑うことができれば。それはもう家族なのではないかと。

常にヒルデに想われ続けてきた(それは親としては異常なまでに)ファイムは。同じようにヒルデに何か恩返しをしたいと常々考えているのだった。

自分への恩返しは、貴女が立派な人になってくれることだと言われ続けたファイムは。

人を幸せにすることこそが、立派な人間だと考えるようになっていた。

これは母から学び、母の無償さ姿勢から学び、本等の歴史から学び、農村という最下層から学び、その中でも幸せはあるのだという事実から学び、そして培ったファイムの信条だった。

それはヒルデを幸せにしたいと思っても、十分にそれを満たすことができない故に生まれたものなのであろう。求めても得ることができない、この境遇から。

もちろん、ヒルデだけ幸せでは意味が無い。それでは家族というものではない。幸せを共有して分かち合い、悲しみを背負い合えるからこそ、家族になれるのだ。

ならばジークの事をもっとよく知らないといけないし、何が彼の幸せなのかを知らないといけない。

そう考える彼女が、ジークに尋ねるのは自然なことであった。

「ジークさんは探しものを探していると言ってましたが、何を探しているのですか?」

雨が上がり、代わりに湿気の混じった風が、彼女達の間を吹きぬけた。

 

 

 

ファイムに目的を聞かれ、ジークは苦笑いを浮かべるしかなかった。

それは彼の任務であり、その任務とは一人の少女をこの大陸から探し出すことだったからだ。

その少女とは、いずれは自分達の頂点に君座すべき人物であり、王位継承権六位という末席だとは言え、王になることができる血筋の少女なのだ。

これ故に話すことができないと、ジークは思った。何よりこれは任務であるし、これを話すことにより何が起こるか解らない。下手したら自分達の足取りを追われてしまうかもしれないし、目的がバレでもしたら、先手を打たれる可能性だってある。

「あるか分からない、財宝のようなものだよ」

そう、適当に濁すことをジークは選んだ。

それに事実、存在。いや、存命しているかす分からないのだ。この国の王位継承権を持つ者達は六位の少女を残して全て殺されており、しかもその少女ですら生存不明で消息が分かって居ないのだ。ただ、その破壊(虐殺と言った方がしっくりくるだろう行為だった)が行われた城から、亡骸が見つからなかったが故に。

もしかしたら城を襲った兵達が少女の亡骸を持ち帰ったのかもしれないし、生きたまま連れ去り、私利私欲を満たしているのかもしれない。

ただ事実問題として、亡骸が無いのだ。闇に葬り去られたという可能性も無論否定できないと分かっているのだが、それでも可能性を捨てることができないのは、戦争とは外交であり、体面同士のぶつかり合いであるところが大きいからだ。

何事にも大義名分が必要であり、それが無いものはいくらその行いが正義であったとしても、その者はただの蛮勇でしかない。

民を導く存在が必要なのである。

 

そう。ジークは現在の王を打倒し、新王を立てようとする反乱軍なのである。

 

その事を知らないファイムは、少し難しそうな顔をした。

「大変そうですね。見つかる可能性はあるですか?」

その可能性は彼が一ヶ月経った今でも、何の情報も得られていない事が何よりの証明で、どれほど困難なことなのかを表していた。

彼は答える代わりに、腕を左右に広げて首を横に軽く倒すことで表現した。

しばらく二人で歩くと、入り口近くの木陰に繋いでいた黒い馬が見えてくる。

「あは、大きいですけど、可愛いです」

そう言うとファイムは、馬の長い眉間辺りを優しく撫でる。さすが田舎の娘だとジークは思った。馬をちっとも怖がっていない。

「この子の名前。何て言うですか?」

「ああ、名前は無いだ。そこまで名馬というわけではないからな。良ければファイム、付けてみるか?」

「良いですか? そうですね。それでは、ベデヒティヒ、というのはどうでしょう?」

ジークは自分の心臓がここまで大きな音を出すのだということを初めて知った。自分の心音に驚いてしまった彼は、彼女が何を言ったのかいまい理解できなかった。

というのも、その彼女がこの黒い馬につけた名前こそ、自分が探していた少女の住んでいた城の名前だったのだ。

「それは、変わった、名前だけど、どういう意味なんだ?」

自分でも動揺しているのが分かった。初陣でもこれほどに緊張しなかっただろう。

「そうですよね、変わってますよね。これは、思慮深い、とかいう意味なんです。この国に実際にあったお城の名前だそうで、あまりにも思慮深い初代のお姫様の為に作られたお城なのだとか。この子とても優しそうな目をしていますので、思わずそのような名前に」

失礼ですかね。等とジークの心境とはまるで逆に、ファイムは笑った。

「そんなこと無いとは思うが、ファイム。君はなんでそのような事を知っているのだ?」

明らかに親子ではない親子。そして農民の娘には確実に知りえない情報ではないか。

ジークは、何かがぴったりとはまったような気がした。

もしかしたら彼女こそが、自分が求めている財宝そのものではないかと、勘が言っている。

「えへへ。実は私、こう見えても結構本を読んでいるのです。お母さんが、余裕ができるといつも本をどこかから持ってくるので、いつの間にか色々な事を覚えてしまって。あっ、あの村の子供で、読み書きができるのは私だけなんですよ!」

えっへん、と彼女はどこか誇らしげに胸を張った。

そして、それと同時にジークの逸った気持ちも、粛々と萎んでいくのが分かった。

まあ、流石に都合が良すぎるというものであろう。確かに王が変わった瞬間には、歴史が動いたということで、様々な史実に基づいた本やゴシップ的な号外だって飛び交う。噂の類だって放っておいたら軽く千里は進むのだ。城の名前くらい一人歩きしても別にどこも可笑しくは無い。彼女はたまたま、城の事を本で読んだのだろう。

そういった事を考えながら、ジークはファイムを褒めて、自分の馬に付けられた仰々しい名前に苦笑した。

失われた城の名前を持つ馬に乗りながら、失われた城の少女を探す旅に出るなんて、どこか皮肉が効いていた。

 

それはいつまでも見つからない姫を探す、道化のようで。

 

二人でベデヒティヒを引きながら、村を歩く。

村長が用意してくれていた馬小屋(酷く狭かったが)にベデヒティヒを預け、二人は家までの道を歩き、家へと着く。

「ただいまー」

「おじゃまします」

思い思いの言葉で家の中に入っていく二人。中ではヒルデが、おかえりなさい、と待っていた。

そして彼女の前には大量の料理。山菜を中心に色とりどりの料理が並んでいる。

「あまりおもてなしは出来ませんし、味は保障できませんが」

「いえ、十分です。すごく美味しそうだ! 男が一人旅をしていると、本当に質素で。うわあ」

「うん、お母さんの料理本当に美味しいだよ。それとか絶品なんだから」

緑色のお浸しを指差しながら、ファイムは微笑んだ。

いただきますと、早速箸を伸ばすジーク。口に含んでみると鼻の奥に、ツン、とした刺激が走った。この地方では薬味としてだけではなく、こうして一品にすることも多いのだということを、ジークは初めて知った。

のたうつジークを二人は笑いながら眺め、その日の食事は終わった。

 

 

 

「眠りましたか?」

深夜。どうしてもジークとヒルデの間で寝ると言い張るファイムに、渋々了解した二人は、彼女を起こさないように静かに起きる。

「ええ、ぐっすり眠っているようだ」

「すいません。この子が無理を言ったみたいで」

「いえ、別に構いません。それよりこちらのほうが申し訳ない。こんなむさ苦しい男の近くで」

それにヒルデは、くすり、と笑う。

「そのようなことありませんわ。さて、ここでは話ができません。外に出ましょうか?」

ヒルデはそういうと、静かな足取りで家の外へと向かう。

ジークも、住み慣れていない不慣れさと暗さに、いつもより気をすり減らしながらヒルデの後を追う。彼女に続いて外に出ると、満点の星空だった。

「さて、少し歩きましょうか? ここでは変な噂が立ちますわ」

苦笑しながら歩き始めるヒルデ。その姿を久方ぶりに、ジークは美しいと思った。

数年間、そのような感情を抱く暇がなかったが、本当に何も無い一日を過ごしたせいだろう、そのような普通の感情は、ふっ、とまるで風のような気ままさでそれが戻ったのだった。

思い返せば、都で兵隊稼業をしていた時も、訓練やら何やら忙しかったし、反乱軍となってからは更にそのような事に現を抜かすことは無くなった。

そして旅に出て一ヶ月半後。彼は久々に歳相応の中年男性としての自覚が芽生えたのだった。

二人はそれから無言で歩き(ジークはそのせいで無駄に緊張し、話そうという気すらなかった)、道が徐々に斜面なりしばらくして、少しだけ背の高い丘にたどり着いた。

そこは満点の星空が一望でき、尚且つ足元には小さな白い花が蕾をつけていた。

「座りませんか?」

気付けば隣でヒルデが座っていた。

ジークは慌てて隣に座って、更に隣に座ったという事実に慌てた。

そのあまりの落ち着きの無さに、ヒルデは思わず苦笑してしまった。

「別に取って食ったりはしませんよ。百騎長様ともあろう方が、女性の前でこのような一面を持つなんて知りませんでしたわ」

それだ。とジークは持ち直した。そう。何故この人はその事実を知っているのだろう?

「何故それを?」

彼のその質問に、ヒルデは星を見上げながら続ける。

「まるで荒れ狂う大河のように、全てを薙ぎ倒しながら進むその姿。(きょう)()のジークに相応しい」

狂河。

それはジークの軍に居た頃に付けられた二つ名だった。

「そのまるで蛮勇のような勇ましくも荒々しい戦い方は、敵も味方も震えたと言いますわ」

「何故――」

「私は、以前都に居たことがあるのです」

なるほど。確かに都に居れば二つ名を聞いたことがある人間も居るかもしれない。城がある都ではよく凱旋パレードが行われていた。

「よく分かりましたね」

「ええ。その頃から私は貴方の事を、まるで熊のような人だと思っていましたから」

苦笑するヒルデ。それについジークも釣られてしまう。

「パレードとかで?」

「いえ、もっと身近な所ですわ」

「となると、飯屋とかですかね?」

「ふふ、距離ではなく、職種柄です」

そこでジークは考えてしまう。兵士に触れる職種などと言ったら、鎧の仕立てやら医療などだろうか? 彼女は当たり前だが女性だ。同じ戦場で戦ってきたわけではないだろうから、それに間接的に関わってきた人間になるのが自然だろう。

「分かりませんか? 貴方は知らないでしょうけど、私はたまに貴方をお城で見かけていました。守備のローテーションの際に」

城で見かけたということは、更に狭まる。武器や防具の仕立てには、女性は居なかったはず。となると、どこだろうか。

「私、実はお城でメイド長をしていたのです」

分かるはずもなかった。なるほど。確かにそれならば自分を知っていても可笑しくないだろう。一方的に知っているというのも頷ける。

自分は全く白の侍女達に興味は無かったし、知らないのは当然で、向こうは自分の事を小耳に挟んでも可笑しくない職種だ、確かに。

ジークはそう納得して、すぐさま別の疑問が湧いた。

では何故彼女はここに居るのだろう。という。

しかもメイド長なんてつまり、侍女達を総括する。いわば城を効率よく運営する為の総指揮官のようなものではないか。確かに兵士よりは数は少ないだろうが、それはそれで酷く非凡な地位に居たことにはならないか。それなのに何故、そのように才能溢れる(見たところ若いのにその地位だというほどに)人が、何故このような片田舎に住んでいるのだろう。

どのような事情があれば、そのような事情が生まれるのだろうか。

そう考えて、駆け落ちの類かもしれないと思った。

だが、ファイムはどう考えても、父親を色濃く継承したとは言っても限界があるほどに、二人の容姿がそうは思えない。何より年齢が離れすぎているのだ。

駆け落ちにしても、ファイムが十六だとしたら、メイド長を十四でやっていたというのか。それこそ無理がある話だろう。

もしかしたら、養子かもしれないと思ったが、ジークの思考はそこで止まった。

隣でヒルデが喋り始めたからだ。

「ベデヒティヒ。ご存知です?」

「私の馬の名前ですね」

そのジークの言葉に、狐に抓まれたような顔にヒルデはなった。

「今日、私の馬にファイムがそう名づけてくれました」

「ああ、なるほど。因果なものですね」

まったくだとジークは思った。今まであんなにかすりもしなかったのに、今日に限って直接的では無いが、間接的な情報ばかり集まる。

「私はそこで仕えていたのです」

寒気がした。

出来すぎだとジークは思った。

あの破壊を生き延びたメイド長。生き証人が目の前に居るなんて。

「聞かせてください、ヒルデ殿! ベデヒティヒに住んでいた王位継承権六位の。姫様はどうなったのでしょう?」

「何故それを聞くのです?」

「私達は現在、指導者を求めているのです」

「現王は指導者ではないと?」

「私達はそう考えています」

「つまりそれは」

ジークは頷く。

「私達は打倒、エヴィンカーを掲げているのです」

なるほど。とヒルデは呟いた。

「姫様の行方を知っていますか? ヒルデ殿。貴女もエヴィンカーにベデヒティヒを滅ぼされた人。先代の王ならばそのような愚考はしなかったはず。あの愚かな元大臣を打倒する為に。二度と同じような悲劇を繰り返さない為にも、私達には指導者が必要なのです」

「事情は分かりました。ですが、私も知らないのです。あの日、国軍が攻めてきた時、私達も混乱していました。何故という気持ちを抑えながらも、必死に姫様を探しましたが、どこにも見当たらなかったのです」

それはつまり、少なくともその際に死んでいなかったということなのだろうか? いや、殺して亡骸を持ち帰ったということも考えられる。ジークはヒルデの話を聞きながら、一人そのようなことを考えていた。

「そして、あらゆる破壊行為が成されている時、私は暖炉の中で気絶していました。気付いたら、瓦礫の中だったのです。運が良かったとしか思えません」

彼女は苛立ちなのか、悲壮なのか、どっちとも取れるような体で話す。

「そう、ですか」

落胆したのだろう、ジークは肩を落す。乗り出していた体を後ろに倒し、地面に手をつける。その指に草露が絡まった。

「そういえば、ファイムとはどういう関係なのです? 失礼ですがヒルデ殿のお子さんではないですよね?」

ジークはそう言うと、ヒルデは重々しく頷く。

「はい。あの子はベデヒティヒの城に居た子供の一人です。すっかり見違えてしまった城で、あの子は一人泣いていました。他を探しても親が居ないみたいだったので、私が連れて行くことにしたのです。一人で辛いとは分かっていますが、時世柄、放っておくと野たれ死にしてしまうでしょうから。あの殺戮を見たあとでしたので、どうしてもこれ以上、死に触れたくなかったというのもありましたので」

分かってはいたことだが、やはり彼女の娘ではなかった。それを確認したところでどうだという話なのだが。

「お願いです。今この国はどうなっているのか教えてくださいませんか? このような田舎では情報が入ってこないのです。そして、私達は何故襲われたのでしょう?」

長くなりますけれど良いですか? と前置きした後、ヒルデがそれに頷いたのを確認して、ジークはゆっくりと話し始めた。現在の情勢を。

 

 

 

「最初は、ロートヴァルトの国王。賢王と名高いジェラード様の右腕、大臣であったエヴィンカーの謀反から始まったのです。奴は自分の権力を高める為に。自分の私利私欲を満たすために、ヴェルゴスと内通していたのです。ヒルデ殿、ヴェルゴスはご存知か?」

「ええ。ベデヒティヒに仕えていた頃、宮殿の者が度々噂をしていたのを小耳に挟んだことはあります。この大陸を現在、破竹の勢いで占領している国でしたよね? 現在はどうなっているか分かりませんが流石に王が変われば、このような田舎であっても、嫌でも耳にしますわ」

それは、前大臣のエヴィンカーが、王になったことを知っているということなのだろう。

「ただ、エヴィンカーがヴェルゴスと手を組んでいたとは知りませんでした」

ジークはそれに頷く。

「ええ。彼はヴェルゴスと取引をしていたのでしょう。ロートヴァルトもヴェルゴスの参加に入る代わりに、自分がこの国の王になることを望んだのです。そしてそれは受け入れられたようだ。このような奇襲であればほぼ兵を失わずに一つの国が手に入りますからね。しかもその国の頂点は自ら傀儡になると言っている。これを飲まないはずはないでしょう。もしそれがエヴィンカーのヴェルゴスに対して仕掛けた罠だったとしても、戦力比は誰の目にも明らかだ。無論、そのようなことは一切なく、大臣エヴィンカーとヴェルゴスの取引は成立するのです」

ジークはそこで一息ついた。彼は本来このような説明をするのが苦手なのだ。体を動かすこと。戦力になることこそが、彼の国に対する最大の忠義のようなものだと考えているからだ。

「彼はその巨大な軍力を、尚且つ自分のロートヴァルト内での自分の地位を利用して、狡猾かつ延髄に。ヴェルゴスの兵を領地に侵入させたのです」

「どのようにして、国境を越えたのです? 国境の境に兵は居るはずでしょう?」

「その見張りに息が掛かっていたらどうですか? 国境警備はその周期ではエヴィンカーの私兵が勤めていたのです」

なるほど。とヒルデは呟いた。自分の国がどのようにして滅びたのか、深刻な顔をして聞いている。

「そして、エヴィンカーはこの国に自由に動かせるヴェルゴス軍を侵入させることに成功する。そして、この国の代々の仕来りをご存知か?」

「数多くの伝統や仕来りがあると思いますが、どのようなものです?」

「この国の王位継承権を持つ、王の血筋の者達はベデヒティヒの姫様のようにこのロートヴァルト内の各地に散らばり、王位継承が行われる時や、式典のような大きな(まつりごと)が行われる時にのみ、中心に存在する城、ロートヴァルト城へと集まるのです。それまでは各人に用意されている城や屋敷で生活をする。何故このような仕来りがあるのかは、さすがに分かりませんけどね」

ヒルデはそれに頷く。ベデヒティヒに実際に仕えていた彼女が。メイド長という侍女達の総括が何故それを知らないで居ようか。

「ただ、それが良くなかった。ロートヴァルト内にまるで濁流のように浸入したヴェルゴス軍は、ロートヴァルト各地に散らばる王位継承者。そしてロートヴァルト城を同日。それも日が上がる前の明け方に奇襲を掛けたのです」

「ちょっと待ってください。そのように大量に兵士を動員させて、誰も気付かなかったのですか?」

「すいません。言い方が悪かったですね。実際にヴェルゴスがロートヴァルト攻略に使った兵士の数は三千ほどだったらしい。しかもこれを六位まで居た王位継承者の下へそれぞれ分け、一番多くの人数をロートヴァルト城へと当たらせた。更に、城の見張りは既にエヴィンカーの息が掛かっており、運が悪い事にその前日には隣の国。キェイルドーとの軽い接触があり、それを退けたロートヴァルト軍は、大臣から酒を振舞われていたのです」

「なるほど。ジーク殿は運が悪かったと言いましたが、キェイルドーもヴェルゴスの傘下に入っていましたね。国の名前こそ残っていますが」

「その通りです。今のロートヴァルトと同じですね」

そこで一旦二人の会話が止まり、沈黙が流れる。

生ぬるい湿気を帯びた風が二人を撫ぜた。

「そして、彼らは国取りに成功するのです。ジェラード王を暗殺し、速やかに国から撤退した。ロートヴァルトの至る所でヴェルゴス兵の襲撃を受けたロートヴァルトでは、まるで忠臣のような顔をしながら大臣のエヴィンカーが王の代行となり、ヴェルゴスを退けるのだとロートヴァルト軍の采配をするのです。そして、出来試合のようなものですからね。当然、ヴェルゴスを退けたエヴィンカーの功績を疑うものは誰も居らず、奴が実質ロートヴァルトの王になる。本来継ぐはずの王位継承者は誰も居ませんからね。そして彼はそのままでは制圧されていたかもしれない城を守ったのだ。彼はこの国に迎え入れられた。私達兵も、王を失った悲しみに包まれながらも、あの見事な采配をした大臣に騙されたのです」

「そういうことだったのですね」

自分達が住んでいた場所が、一人の男の私欲を満たす為に潰されたのだ。ジークには彼女の気持ちが何となく理解できた。

自分達も偽りの王を、少なくとも最初の方は信じていたのだ。そして事実を知ったときのやるせなさと言ったら無かった。そのような感覚なのだろうとジークは思った。

王とはそのようなものである。

権力者の愚作や突拍子も無い思いつきは、下々を振り回してしまうのだ。

考えることをしないのは王であってはならない。

考えることこそが大切なのだと。あらゆる結果を考慮することが大切なのだと。

問題に直面し、目先の成果に囚われるものは王にあらず。

そうジェラード王が演説していたのをジークは思い出した。

そして、何故自分達より近い位置でそれを聞いていたはずのエヴィンカーが、このようなことをするのかが彼には分からなかった。

「でも」

ヒルデは重々しく言葉を紡いだ。理不尽さに打ちのめされているだろう彼女は、それでも尚真実を知ることを欲していた。

「何故貴方達はその大臣を止めようとしているのですか? 彼の部下で有り続ければ、きちんとした暮らしが約束されているというのに」

「それはしばらくしてエヴィンカーの本性を知ったからです。奴はこの国の。ロートヴァルトの国を考えていないのです。自分が裕福であれば良い。自分の思う通りに政治が動けば良いと考えているからです。贅沢の限りを尽くし、国費を使い果たし、重税を引く。払えなければ重罪です。見せしめのためだと公開処刑することも珍しくない。恐怖と餓えにより民が。特に税が払えないような田舎の民は野盗に身を投じ、治安は悪くなる一方だ。これが正しい国の形だと言えるでしょうか? 少なくとも前王のジェラード様は違った。民を考え自身も示しが付く程度の節制をされ、更に民の為に用水路を作る。私達兵には常に激励をくださる良き王でした。馬鹿な思想だと思われるかもしれませんが、ジェラード様の為ならば、命は惜しくなかったのです。しかし今の。エヴィンカーの指揮の下では戦いたくない。私にだって親は居ます。だが、その親の暮らしを考えることすらしてくれないエヴィンカーは、この国の。いや、王に相応しくないのです」

ジークの両親も、この田舎のような場所に住む農民だ。重税に苦しみ、国外に出ようにも検問の警備が厳しく逃げることが出来ないのだという。

「だから、王が必要なのですね?」

ジークは頷く。だからこそ今の腐敗した政権を打ち滅ぼし、新たに王を建てようと自分の上司の下に集ったのである。

「勝てる見込みはあるのですか?」

そのヒルデのもっともな質問に、ジークは苦い顔をした。

「正直言えば厳しいですね。こういう場合は嘘でも勝てると断言するのでしょうけど、それが出来ないほどに圧倒的な差です。例え第六の姫様が見つかり、全員の士気が高まったとしても焼け石に水でしょう」

ジークは苦虫を潰したような顔をする。そう、戦力は見るに明らかなのだ。

物を知らぬ、軍略基礎の欠片も無い子供が見ても、圧倒的に物量が違う。

例えるならば、蟻が象に挑むようなものであり、誰の目にも明らかな兵力なのだ。

 

「玉砕するつもりなのですか?」

 

故に、ヒルデがこう聞いてしまうのも無理も無いことだと言えた。

「そのようなつもりはありません。ただ、私達の忠義を貫くには――」

「忠義で民は救えるのですか?」

ヒルデの咄嗟の切り返しに、言葉を詰まらせてしまうジーク。

「そ、それは――」

「確かに現在の政治は良くないかもしれません。隣の村も集団でどこかに逃げたと聞きます。ですが、間違っていることを武で正すこと。勝てないならば玉砕しようという姿勢は、残されたもの達に何を残すのでしょう。ますます重税を引かれるかもしれません。もしくは感化され大勢の反政府思想を生むかもしれません。貴方達のほうこそ、ちゃんと考えて行動しているのですか? 妄信的に前王を追いかけているあまり、それを失ってしまっているのではないでしょうか? 王は貴方達兵が、無残に散るのを望むような方ですか?」

すっかりと黙ってしまったジーク。無理も無い。今までの思想を根底から考え直すことを強要するかのようなことを言われたのだから。

「それに。第六の姫はもし生きていれば十六になるはずです。これは立場上私が間違えるはずがありません。もし、貴方がその姫を見つけたとして、自分たちの指導者として担ぎ上げたとしましょう。ですが良く考えてみてください。貴方達は元服を済ませたばかりの姫を連れ、玉砕するつもりですか? どこかに居させるにしても、貴方達が玉砕してしまえば、彼女の心に多大な傷を残すことになるでしょう。どちらにせよ酷すぎると思いませんか? 非人道的だと思いませんか? そのような思想、貴方達が敵視するエヴィンカーとどこが違いましょうか!」

矢継ぎ早にヒルデの口から紡がれる理想。

ジークはそれに耐えることしかできない。耐えて耳を傾けることしかできない。

耳が痛いと比喩することがあるが、まさしくそれだ。彼はあえて目をそむけていた所を的確に射抜かれている。

自分の上司に当たる、千騎士長のクラウスならどう答えるだろう。ジークはヒルデの質問を聞きながらそのようなことを考えていた。

彼ならどう答えるだろう。それでもやらなければならないと言い切るだろうか。別の上手い言い回しを使い、それを回避するのだろうか。考え直すことはしないだろうがどうこの場を切り抜けるだろうか。

ジークはこの時なんとなくだが、この先ずっと彼女の言葉が心に残り続けるだろうと予感していた。それは彼のどちらかと言えば野性に近い直感から来る予想であった。

玉砕は忠義ではない。国を憂うが為に姫を見殺しにするのか。前王の意思を真に受け止めているのか。

様々なことが彼の頭の中を巡回し続ける。

もし姫を見つけたとして、彼女は自分達と一緒に来てくれるのだろうか? 真の意味で父親からその思想を色濃く継承しているだろう、その姫君は。私達に血を流せと言わないのではないのではないか。そして、敵の血を見ることを嫌うのではないだろうか。

もしそうだとすれば、反乱軍はどうなってしまうのだろう?

それならば、いやしかし。ジークの頭の中には、そのような単語が飛び交い続けた。

「約束してくださいませんか?」

ヒルデの言葉が、思考の海からジークを引きずり出した。

「約束、ですか?」

彼女は頷く。それは静かに。まるで星の瞬きのように。足元に揺れる香花(フラウ)のように。ゆっくりと。だが力強く。

「もし、貴方達が姫様を見つけたとして、その姫様も戦うことを決意なさったのなら。どのような結果が起ころうとも、貴方だけは最後まで姫様を守ってくださいませんか? それは私がメイド長として果たせなかった責務の一つなのです。彼女の居場所を守ってあげることができなかったことが、私の唯一の心残りなのです。ジーク様に私の無念を押し付けてしまうのは心苦しいのですが、もし貴方がこの国を変えるというのであれば、私のこの想いだけでも、持って行っては頂けませんか? 私の想いが貴方の振るう矛に少しでも重みを与えるのであれば」

「それは――」

城を守ることができなかったと、彼女は悔やんでいるのか。彼女は戦う力を持っていないというのに、それでも後悔しているというのか。

ジークはここに、静かな強さを見た気がした。

武力だけが力ではないのだ。想う力こそ。全ての力の源なのだと。

それはつまり、前王であるジェラードと同じ思想なのではないかと、ジークは思った。前王も良く様々な事を想っていた。王は気を使いすぎると、忠臣達が笑っていたのをジークは知っている。だからこそだ。だからこそジェラード様はあのように強く、そして慕われていたのだ。

ジークは改めてその事を知った。そして同時に恥じた。当たり前のことを当たり前のようにできるからこそ、彼は偉大な王だったのだと。

すぐに武力に頼ってしまう自分達より、彼女達力無きもの達の方が、よっぽど王の思想を理解しているという事実に、ジークは恥ずかしさを覚えつつも同時に。エヴィンカーの愚かさを再確認し、彼はやはりこの国を変えなければならないと再起した。

「ヒルデ殿の想い。しかと受け取りました! 姫が見つかり次第、革命は起きましょう。その際に貴女の想いを乗せ、貴女の分まで矛を振るいましょう!」

ジークは胸を張り力強くヒルデに告げた。

「お願いします。そして、何卒、何卒、姫をよろしくお願いします。大義名分と忠義は違うということを、お忘れないようにお願いします。王者と愚者の理は紙一重なのですから」

ヒルデはそう微笑むと、ジークは思わず顔を逸らしてしまった。

星は煌き、風は歌う。

ジークにとって忘れられない夜はこうして終わった。

 

 

 

「間違いないだな?」

薄暗い洞窟にそのような声が響いた。

「間違いないです。二人で確認しましたから」

なあ、と同意を求めて振り返る男。日焼けをしており、筋肉も盛り上がっている。ただ、あまり食事をしていないのか、全体的に細い印象がある。

「間違いないなあ。馬が止まってたんだ。んでよ。村の中に入っていっただ」

それを聞いた筋骨隆々の男は、無精髭を触りながら、にやりと黄色い歯を見せて笑う。

「この時期に馬を借りてきてまで、何を運ぼうってんだかねえ」

「雨季ですかいね。春先に取れたものか、乾燥物かもしれない」

この時期に乾物はダメになりやすいのだが、花や茶などは別だ。茶は上質なものであれば高く売れるし、安い葉でも十分な金になる。乾燥した花などは服の中に縫い込んだりすることで香りを出すことができるし、飾りを作ったりと様々な使い方ができるのだ。

「まあ、何にせよ馬を借りてきたということは豊作だっただろうさ、(あやか)らせてもらおうじゃないか!」

強面の男がそういうと、彼の手前が大声を上げて賛同する。ざっと見て十人以上は居るだろう。それぞれが鍬や鋤を掲げている。この洞窟の指揮を取る人間だけが、唯一腰に長騎剣を下げていた。

「明日にカープフォートを襲う! 略奪には気力が居るからな、しっかり休憩を取っておけよ!」

強面の男の声に、再度十人ほどの男達が爆ぜたかのように声を張り上げた。

 

 

 

その日ファイムは夢を見た。

それが夢だと分かったのは、見たことも無いような景色のせいであったり、自分の背格好が随分と小さいからであり、見たことも無いような綺麗な服を着ているからであり、幼い自分を抱えて走っているのが、挿絵でしか見たことの無い侍女の姿をしている、若いヒルデの姿のせいであったりした。

辺りを見渡しても左右レンガだらけで、床さえもレンガだった。唯一茶褐色の天井はヒルデのすぐ上にあり、ファイムはここが人工的な洞窟のような場所だと判断した。

夢は一向に終わる気配を見せず、自分が何を望んでも夢は一切の変化を許さなかった。

見続けても同じ風景ばかりな為、自然と唯一の動く、幼く着飾った自分と若いヒルデに目が行くのは当然だった。

私は何故この夢を見るのだろう?

彼女がそう思うのは無理もない。これは彼女が定期的に見る夢の内容なのだ。

この夢が何を意味して言うのかは分からない。

ヒルデに相談してみても、返って来たのは、子供のようになってこの環境から逃げ出したいという願望の現われなのではないだろうかと、いうものだった。

確かにそれには納得できる為、ファイムはこの夢を見るたびに自己嫌悪に陥るのだった。

着飾りたい、子供のように逃げ出したい。一人では怖いから母親と(しかも頼りがいのある若い母と!)一緒に。自分はどれだけ弱い人間なのだろうと、ファイムはつい自分を恥じてしまうのだった。

永遠と続く洞窟は、自分の欲求の果てしなさを表すのかもしれないし、レンガはやはり都会に憧れてのものなのだろうか?

そう自己を自己流に分析するたびに、ファイムはこの夢から早く覚めたいと渇望するのだった。

目の覚めるような蒼い、美しい模様の入った服を着た小さい少女(ファイム)。その手には小さなペンダント。翠色の宝石の周りに、金色の枝のようなものが絡みついたものだ。

それを見るたびに、どこか懐かしく、そして不安な気持ちに彼女は襲われる。

そして、そのペンダントだけがファイムに身に覚えが無いものなのだ。

他のファイムが着ていた服も。ヒルデの美しい服も。靴も。全て見覚えがあるのに(大抵はヒルデが売ってしまったりしたが、ファイムの服だけは大事に根櫃(ねひつ)の中に入れてある)そのペンダントだけは彼女が付けていた覚えがないのだ。

どこかの物語で登場して、同じようなデザインを想像しているのだろうか? そしてそれを身に付けたいという。やはり着飾りたいという欲求があるのだろうか。

その美しい蒼い服は、既に体格的に着られなくなってしまったが故に、着飾るには。あの服を着るには子供になるしかないという思いが、この夢を見せているのかもしれない。

もう着られないのだから生活の足しにしてはどうだろうと、ファイムは度々提案するのだが、頑なにヒルデはそれを拒み続けた。

そのせいで変に意識してしまっているのかもしれないと、ファイムは思っている。

客観的に見れば、実に美しい二人だとファイムは常々思う。

まるでお姫様達のようだと。

その着飾った二人の走る音が大きくなるにつれて、その不思議な洞窟を進むに比例するように彼女は夢から覚めていった。

 

 

 

小鳥のさえずりと、小さな歌声でファイムは目を覚ました。

胡乱気にヒルデと小鳥の歌を聴きながら、ゆっくりと上半身を上げる。

すっかり夢のことを忘れてしまったのか特に興奮した様子もない。珍しいことではないのだろう。ファイムは特に何をするでもなく、ぼう、と自分が本調子になるのをそのような意図があるわけではないだろうが、待った。

「おはよう、ファイム」

「おはよう、母さん」

にへらーと笑うファイム。まだ寝ぼけているのかもしれない。

「もう、顔を洗ってらっしゃいな。でないとジークさんに笑われてしまいますよ」

そのジークという単語を聞いて、彼女は咄嗟に布団から飛び跳ねた。そうだ。自分は昨日お客様を招いたのだったと。

「ジークさんは?」

既に旅立ってしまったのかもしれないと、彼女は焦る。まだ見送りもしていないのに、そんなの無いと、彼女は母親に問う。

「顔を洗ってるんじゃないかしら?」

急いで外に向かうファイム。しかし周りには誰も居ない。顔を洗うのなら家の中にある水瓶か、外に置いてある瓶なはず。その両方に居ないのであれば、後は用水路だけだ。

ファイムは急いで向かうと、案の定ジークはそこに居た。ただ、彼は顔を洗っているわけではなく、長い棒のようなものを使い、薙いだり突いたりしている。どうも鍛錬のようだ。

正直、ファイムはそのジークの姿に見とれてしまっていた。

あまりにも力強いその姿に。もはや演舞のようにすら見えてきた彼の鍛錬。ジークが棒を持ち回転しながら周囲を薙いだ瞬間、彼はようやくファイムの姿に気付いた。

彼の動作が停まった瞬間、ファイムはジークに拍手をする。

「すごいです、ジークさん。見とれてしまいました!」

「毎日の日課だもんでな。こんなものに感動してくれるなんて嬉しいね」

ジークはそう照れた顔をした。

「それで、どうしただ? ファイム」

「朝起きたらジークさんが居なかったから、もう行ってしまったのかと思って、探してしまいました」

「ハハ、それはさすがに無いさ。そこまで失礼な男じゃないつもりだ。でも、よくここが分かったな」

「顔を洗う為の水がある場所は限られていますから」

なるほど。とジークは呟いた。確かに彼は顔を洗った後に、いつもの日課である朝の鍛錬を始めたのであった。

「やっぱり今日、行っちゃうですか?」

寂しそうにファイムは尋ねた。

「ああ、まだ探し物は終わってないしな。見つかるまで旅を続けないといけない」

「じゃあ次、いつ会えますか?」

その質問は、彼にとって予想外だった。

この出会いは一期一会なものであり、二度目があるなんて思っても見なかったのだ。そこまでファイムに懐かれているとは思っていなかったし、常に戦場に身を置いている身であり、姫が見つかり次第、命がけの戦いを強いられる彼は、これまでそのような強い絆を作らないようにしてきたのだった。自分の死によって悲しむ人を増やしたくないという思いがある彼は、故にファイムの対応に困ってしまっていた。

「そうだな――」

彼はこのまま旅をすることになるのだが、もうしばらくすると定期報告をする為に一度アジトに帰還しなくてはいけない。その際にまたこの村を通ることにするかと彼は考えて、やはりこの身を案じてくれる人を増やしてはいけないという気持ちにもなった。

そもそも国から見れば彼は反逆者であり罪人なのだ。そのような自分が。いくら正義は。正しいのは自分だという確固たる意思があったとしても、やはり自分がどこか間違っているのではないだろうかと揺れてしまうのは仕方の無いことだと言える。

そのようなことを考えているとは思ってもみないファイムは、続く言葉を待っていた。

「分からない。ファイム。今とても治安が悪いのを知っているかい?」

隣村の住人が集団で逃げたという事も、野盗が多いということも知っているのだろう。ファイムは静かに頷いた。

「今の時期、旅はとても危ないだ。だから俺はその約束をしてあげることができない」

間違っても戦争を、謀反を起こすから死ぬかもしれないと言えなかったジークはそう濁した。そもそも彼は野盗なんかに後れを取るはずがないのだが、ファイムには野盗とはやはり恐ろしいものに思えるし、目の前でジークの力強さを見たとはいえ、世間的にはどの程度のものなのか分からない彼女にとって、それは真に迫っていた。

だからこそだろう

 

「じゃあ、旅を辞めるということはできないですか?」

 

彼女はそう漏らしたのは。

 

 

 

「だって危ないですよね? 死んじゃうかもしれないですよね? だったら旅を辞めれば良いじゃないですか! いくら探し物があるからって、命よりも大切なことなんて無いはずです! 私、ジークさんに死んでほしくありません!」

ファイムのその泣きそうになりながらも言い切る強い意志に、ジークは強い既視感を感じていた。

それは昨日、ヒルデに言われた事とそっくりではないか。

つまり、前王ジェラード様の意思ではないか。

憧れている王に諭されているような錯覚に陥りながらも、ジークはそれを振り払う。

「すまない。確かに命よりも大切なことはない。だが、それが多くの命が掛かっているとどうだ? 私一人の命と、百人の命。救えるのがどちらかだとすれば、ファイムはどちらを選ぶ!?」

こんな小さな娘にここまでムキになるなんてどうにかしていると思いながらも、ジークは言葉を辞める事はできなかった。

正直に白状すれば、彼は揺れているのだった。

自分がやっていることは真に正しいのだろうか。謀反という行動こそが、現在の悪政を脱却する為に真に必要なことなのだろうか? 本当にそれしかないのだろうか?

確かにヒルデやファイムが言っている事は偽善だ。聞えの良い正論でしかないと、分かっている筈なのに。綺麗事だけでは世の中は変わらない。それは力を持たないのだと、彼は知っているはずなのに。それを、救うべき民衆から言われた事が、彼の根底をゆっくりとかき混ぜるには十分だった。

そう、綺麗事なのだ。言葉では、意思では民は救われない。民に安寧をもたらす為に作られた法律だって、現に民を救っていないではないか。現在の状況を考えてみろ。民は重税に苦しみ、生きていくには野盗に堕ちるしかなく、治安が乱れ。本来国を盛り上げていく為に欠かせないはずの民を、農民を。守るべき兵士がそれを斬るという本末転倒さ。

法が間違っている。王が間違っている。それは分かっているのだ。

だが、その解決方法はどうなのだろうと、出会ってしまった二人と関わったことで、ジークは揺らいでしまった。

だからこそ、ファイムに対してムキになってしまったのだ。

子供相手に、誰にでも分かるような言い方で、自分を肯定して欲しさに、意固地になってしまったのだ。

ヒルデだけなら良かったのだ。

だが、このように小さい娘にまで、自分を否定されたのだ。彼は誰かに自分を認めて欲しかったのだ。安心して自分の道を進めば良いと後押しをして欲しかったのだ。

そして、その安易な問いに、ファイムはゆっくりと時間を掛けた上で。

 

 

「私は、全員の命を救います」

 

 

そう。ファイムは言い切った。

選んでいる時点で。選択している時点で、選ばれないものが出てくるのは必然である。

救いたければ見捨てる。何事にも犠牲は付き物。何かを人柱にして先に進む。

そのような事では、真に民を救うことにならないと。この少女は言い切った。

彼女の答えに、ジークは何かを見た。いや、一つの解を得たと言い換えても良いだろう。

王が何故毎回のように考えていたのか。

考えて。考えて。考えて。考える。

何故あのように。それこそ病的だと揶揄されるほどに、王は考えることをしていたのか。それは王が一人での多くの人間を救うことができないのかと、必死に考えていたからではないのだろうか。

実際にどうしても零れてしまう人間が出てくる。それは仕方の無いことだ。できるだけ仕方ないと諦めなくて良い人数を増やすことが、政であるし、真の法律なのだろう。

だが。

理想を語れずして何が王か。

理想を追求できずに何が王か。

理想を現実に近づけず、何が王か。

現実を侵す理想を作れず、何が王か。

全てを救えず、何が王か。

嘘を現実に出来ず、彩られた虚構を現実にできず、理想郷へと万進できず。

何が王だというのであろうか!

子供の夢物語を実現するからこそ王なのであろう。

故に自分は間違っていない。王ではないからだ。

民で無い自分は王でないのだ。

王に仕え、王に導かれ、王に従い、王に尽くす。

彼女のような理想に苦しむ王に仕え、尽くすのが我等の役目なのだ!

悩んでいたのが嘘のようにジークは思えた。

ファイムの中にある理想が、自分の中のジェラード王を呼び戻してくれた。

王は常に民のことを考えていたのだ。同じ血族である姫様も同じ事を言うであろう。

何も分かっていない愚者の理を言うのが王なのだ。

馬鹿と天才は紙一重だという。それは狂気の度合いではなく、同じ事を言うからなのだろう。では、民と王は同じであるはずだ。民は自分達の事を。立場的に弱い自分達を気に病む。

ならば自分達が救うべきはやはりそこなのだ。

ファイムには悪いが、自分は民を守る為にやはり戦うべきなのだ。

そう。最初兵士を目指した時もそうだった。自分の家族を守りたいという気持ちから始まった彼の鍛錬は、彼が強くなるにつれ、村を守りたいと変化し、手の届く地域を守りたい。もっと広範囲を守りたいという気持ちが、彼に国軍への門を叩かせたのだ。

様々なことに、文字通り目を奪われ、次第に身動きが取れなくなっていった彼は、ようやく真の意味で自分の役割を取り戻せたのだった。

「ありがとう、ファイム。そしてごめんな。俺は自分の意思を、やはり違えることができないだ」

それは次第に大きくなるだろう国の憂いを取り除くのだと、再決心した男の言葉だった。

だが、彼の中に捨石になろうという気持ちだけは、すっかりと消えていた。

死んでしまっては守ることができない。

考えることが苦手な彼は、たったこれだけの事に随分悩んでいた。考えることをしない為に鍛錬を積み、結果更に考えないといけないような立場になってしまったが故の苦心。

それが今では取り除かれて、最初に兵を志した。いや、家族を守りたいと思っていた当時と同じ気持ちになっていた。

朝だということもあり、ジークはとても晴れやかな気持ちになっていた。

「じゃ、じゃあ! ジークさん。絶対に死なないでください! そしてまた守りにきてください。私が安全に暮らしているか、時々確認しにきてください」

「分かった。約束するよ。俺はファイムを。ヒルデさんを。この村を。守る為に旅を続ける。また会いに来るファイム。だからその時はまた美味い茶をご馳走してくれよな?」

そう言うと、ジークはファイムの頭の上に手を置くと、彼女の頭を、くしゃくしゃと撫で回す。そのせいですっかりと髪が乱れてしまったが、ファイムは目を閉じて気持ち良さそうだ。

「っと、まだ別れじゃないしな。ヒルデさんも待ってるだろ。戻ろうか、ファイム」

「そうですね! ずっと二人で話してしまいましたから、お母さん怒ってるかもしれません。怒らせちゃったらご飯が無くなっちゃいます!」

「そりゃあもったいない。あんなに美味いものを食い逃すなんて真っ平だ!」

ですね! と二人はまるで競走するかのように走り出す。その様子はまるで親子のようで、ジークはこのように笑ったのはいつ振りだろうと、実に愉快な気持ちになった。

 

 

 

朝食を食べ、ジークは何か手伝いをしたいと切り出した。

旅の話だけで、一泊二食が釣り合うなど、到底思えなかったからだ。

ただでさえ重税が課せられ、一食を切り詰めないといけないという時世なのに、血縁ならまだともかく、赤の他人を招いて持て成すことなど余分なことである。生きていくことにさえ苦心せねばならぬというのに、何が他人にまで気を回せようか。

だが、この家族は快くジークを招いてくれた。その恩に報いなければいけないと。真に民の事を救いたければ、考えなければいけないのだと教えてくれた彼女達に、どうしてもお礼をしないといけないと彼は思った。

その話を持ち出して、ヒルデは遠慮したがどうしてもと食い下がるジークに根負けしてしまったのか、昨日二人で行った丘にファイムと一緒に、香花(フラウ)を袋いっぱいに積んできて欲しいと頼まれた。

なんでもその香花は、乾燥させることで(ちゃい)にもなり香袋(ポプリ)を作るのにも使えるとかで、都でもそこそこな値段で売れるのだとか。無論、野花なので気品高い香りはしないが、町民などの間に良く広まっているらしい。

香りで着飾るという意味がジークにはあまり理解できなかったが、確か元同僚にそのようなことに気を使う奴も居たことを思い出して、苦い気持ちになった。

「分かりました。その香花ってのを摘んでくれば良いですね?」

はい、そうです。とヒルデは微笑みながら返事をする。ちなみに彼女の笑顔な理由というのは、花を摘む熊という構図が頭に浮かんでしまい、それを必死に頭から追い出そうとしているというものだった。

「それじゃあジークさん。行きましょう! 今から行けばお昼くらいには終わりますよ!」

ゆっくり作業すればまた泊まっていってくれるかもしれないという、ほのかな下心が湧き出たファイムだったが流石にそれは良くないと思い直す。約束したのだからまた会えるのだ。そういう工作をするのはどこか後ろめたい。

「そうだな。それじゃあ行こうか」

ジークはヒルデから背負い袋を受け取ると、ファイムと一緒に家を出た。

 

 

 

昨夜。ヒルデと一緒に星空を眺めた丘にたどり着く。

小高いと表現するには小さすぎるその丘。昨日はつぼみになってしまっていた花が、満開に白く小さな花を付けていた。

「おっ、結構咲いてるな。これを摘めば良いのか?」

立ちながらジークは周囲を見渡す。満遍なくとまではいかないが、まるで集落のように花が寄り集まって咲いている箇所がいくつも目に入る。

まるで茸のようだとジークは思った。

「はいそうです。でも、優しく扱ってくださいね。これは花のせいで見えないですけど、実はとても小さい樹なんです。乱暴にしたら、根っこが取れてしまいます。そうしたら、もう育たなくなってしまいますので」

つい草花だと思っていたジークは、ファイムのその発言に驚く。

「花の部分だけ丁寧に摘んでください。するとまた生えてきますので」

そういうとファイムは花の前に座り、丁寧に一つ一つ花を摘んでいく。

その隣でジークも、彼女に習って花を摘む。

片手で摘もうとすると花全体が動く。どうやら根が張っているとはいえ、簡単に抜けてしまうようだ。慌ててジークは手を離す。

「両手の指を使って花だけを捻るように摘まないと、すぐに抜けてしまいますよ」

そういうファイムは器用に花を摘んで、広げたスカートの上に花を乗せていく。その仕草はとても可憐だ。

しばらく二人で花を摘んでいると、ジークはファイムの様子が可笑しいのが分かった。

それは何かを我慢しているようで、何かに悩んでいるようでもあった。

「どうかしたのか、ファイム」

ジークが尋ねると、彼女は震える。その際にスカートの上にあった花が少し舞い上がり、すぐにスカートに着地する。

しばらく、もじもじとしていたファイムは、ようやく言う気になったのか、深呼吸をする。そしてようやく決心した彼女は。

「ジークさんは、お母さんのことどう思ってますか?」

そう尋ねた。

二人の間に風が流れる。

どう思っているか。ジークの頭に昨日の出来事が浮かぶ。

二人でこの丘に座りながら星を見た夜。

そして、ベデヒティヒの第六王女を探し出し、必ず守り通すという約束。

ただ、彼女が聞いているのは無論、そのようなことではないだろう。

女性としてどう思うかと聞いているのだ。

それにジークは不思議に思った。

ヒルデに対して思っていることなんて。

彼女の言葉で改めて、ジークはヒルデの事を考える。

先ず美しい人だと思った。それは昨日の夜、最初に思ったことだ。確かに都に居た頃は彼女よりも美しい人は沢山居た。だが、見た目だけの美しさではない。内から滲む美しさとでもいうのだろうか。美しい人というより、美しい雰囲気を纏う人と言った方が正しいかもしれない。

次に聡明な人だと思った。自分のような戦うことに意義を見出している輩と違って、戦う術を持たない彼女。だが、愛国精神は自分と同じかそれ以上だ。前王の意思をきちんと後継しているという意味では、自分の上司であり反乱軍の長。クラウスと同じかもしれない。ただやり方が違うだけだ。

そして優しい人だと思った。これ以上死を見たくないという理由で、見ず知らずのファイムを育てているのだから。一人でも辛いだろうに、自分よりもファイムを重視して生活している節がある。それは自分の故郷が滅ぼされたことをどういう形であれ、ファイムに伝えておきたかったのだろうか。それとも彼女に人間の愚かさを伝えたかったのか。どちらにせよ、ヒルデはファイムに村人には過剰な知恵と思想を持たせている。境遇が同じだからかもしれない。自分の故郷を滅ぼされたのだから、それとは真逆の。清い思想を持って欲しかったのかもしれない。優しいというのとは少し違うかもしれないが、ジークのような旅人にも分け隔てなく接してくれるのだ。ファイムが連れて来たから、教育の一貫として持て成しているだけかもしれないが、それでも十分過ぎるほどに彼女は良い人だ。

ただ、女性として意識しているだろうか?

その点において、ジークは首を傾げてしまう。

確かに素晴らしい人だとは思う。ただ彼は恋というものがどういうものなのか、分かっていないのだ。女性を見れば美しいだの、色気があるだのとは思うし、まったく興味が無いといえば嘘になるのだが、ヒルデに対してはどちらかといえば友達。いや、師に近いような感覚を持っている。自分の芯を真っ直ぐに正してくれた人に、どうして欲情できようか。

それに出合ってまだ一日しか経っていないのに、そのような感情湧くものかと。ジークは自分の中で解答を出した。

長い間悩んでいたからだろう。ファイムが心配そうにジークを見ている。

「良い人だと思うよ。でないとこんなに可愛い娘が生まれるはずがない」

そう言いながらジークはファイムの頭を撫でる。くしゃくしゃと、小麦色の髪が踊った。

実の親子ではないと分かってはいるが、ジークはとりあえずそれを伏せる。もしかしたらファイムは自分の実の母だと信じているかもしれないからだ。

「実は私、実の娘じゃないですよ」

その何気ない発言に。ジークの撫でる手は止まる。それはさほど重要ではないと言わんばかりにあっさり彼女が言うものだから、手を引くのを忘れてしまった。

それに気付いて彼はファイムの頭から手をどかす。

髪を手で整えながらファイムは続ける。

「髪の色が全然違うでしょ? それに、目の色だって。気付きませんでした?」

気付いていたが、それを軽々しく口にして良いものか、ジークは悩んでいた。無理をしている可能性だってあるのだ。

「そうなのか?」

結局ジークはとぼけることを選んだ。そっちのほうが実害は少ないだろうと思ったからだ。

「はい。母から聞いたことはありませんが、やっぱり分かっちゃいます。父親の話も聞いたこと無いですし」

ファイムは寂しそうに言った。それを見たジークは改めて奮起する。この国からこのような子をこれ以上作ってはいけないと。

「寂しいか?」

何気なくジークは尋ねる。

「いえ。血は繋がって無くても、私をこんなにも想ってくれる。こんな幸せなことって無いと思います。だから私、お母さんが大好きなんです」

香花(フラウ)のようにファイムは笑った。

「そうだな。ヒルデさんは本当にファイムの事を好きなんだろうな」

それが王女を守ることが出来なかった代償行為だとしても。

「はい! でも、たまに行きすぎちゃってると思いますけどね。自分の食べる物を減らしてまで、私に食べさせてくれますし、着飾るものを売り払ってまで、私に学ばせますし」

ファイムは苦笑するのに合わせ、ジークも苦笑した。

「それだけファイムのことが大事なんだよ。同じような境遇なんだから」

そのジークの言葉に、ファイムは、きょとん、とする。

「同じような境遇? どういうことですか?」

ファイムの問い返しに、ジークは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。

「ヒルデさんから何も聞いてないのか?」

「ジークさんはお母さんから聞いたですか?」

ジークは頷いた。

城にメイド長として勤めていたヒルデは襲撃された日、同じように倒れていたファイムを見つけ、育てることを決心したのだということを、彼女は知らないのか?

「知らないのか?」

「はい。実の母親じゃないと分かっているですけど、やっぱりそれを確認するのは怖くて。万が一それを聞いてしまうことで、今の関係が壊れてしまうのがとても怖いです。実の親だと信じてもらっているからこそ、母親と振舞っているのかもしれません。そして、そう思われていないと知ったとき、今の関係に溝のようなものができてしまったら。それだったら、確認しないほうが良いですから」

寂しそうにファイムは笑う。

「そんなこと、ヒルデさんはしないだろう」

「はい。私もそう思います。もし私が実の娘じゃないよね、と確認を取ったとしても、母は私を嫌うことは無いと思います。そんな心の狭い人ではないですから。ただ、確認するのが怖いですし、さほど意味も見出せないので」

ファイムはそういうと、小さく舌を出して笑う。それは悪戯が見つかった時のように。

「でも、興味はありますけどね。どうして母は私を育てようと思ったのか。――思ってくれたのかは」

話すべきだろうか? ジークは考えて辞める。これは自分が踏み入る領域ではないと思い直したからだ。

ファイムに微笑み返しながら、ジークは手元にある香花を摘む。が、勢い余って樹の根ごと引き抜いてしまった。思わず、いっけね、と呟いて根を元通りに土の中に戻そうとするが、どうしてもそれは戻ることは無かった。埋まってはいるが、どこか不自然なのだ。

「あーあ。しょうがないですね」

「すまない」

「こうなったら枯れちゃいますので、これから全部摘んでしまいましょう」

二人はジークが引き抜いてしまった香花を摘み始める。

「でも、何でジークさんは私の生まれを知ってるんですか?」

「ああ。昨日、ヒルデさんとちょっとな」

ジークのその言葉に、ファイムは一瞬間を空けて。

「ええ! 昨日ですか!?」

と驚いた。ファイムはずっとジークと一緒に居たのだ。それなのに昨日二人が話したということは、ファイムが寝た後以外ありあえないという消去法から。

「ジークさん。昨晩、母と一緒に居たのですか?」

「ああ。寝付けなかったから散歩してたらな

嘘を言うのは苦手だが、あらぬことを疑われるのもどうかと思ったジークは、咄嗟に出任せを言った。

「そうなんですか」

そういうファイムの顔は嬉しそうだ。ずっとファイムを中心に生きてきたと思われる彼女が、自分の意思でジークと密会(大げさだが)をしていたからだろう。申し訳ないと思っていたファイムにとって、これが喜ばずにいられるはずがない。

「どんな話を――」

ファイムの反応に、ジークは苦笑いをする。

彼が村に居た頃から、女というものは色恋沙汰が好きだということを、なんとなしに知っていた彼は、やはりどこも例外ではないのだと思ったから。

だが一向にその話の催促が来ることがないのを、ようやく不審に思ったジークは、香花から目線をファイムに移す。

彼女はジークのことを見ておらず、代わりに村の方を眺めていた。

「どうかしたのか? ファイ――」

 

言いかけて、彼は村から白い物が揚がっているのを発見した。

 

「――あれはなんだ?」

凧ではない。村の風習に、凧を揚げる村があることを彼は知っているのだが、あれはそのようなものではない。もっと。まるで有機物のような流動をしているものだ。

煙だった。

村から白い煙が揚がっていた。

この時期に焼畑をすることは無いはず。

だとすれば、何かの合図だろうか?

狼煙? いや、祭りが近いのだろうか?

「なあ、ファイ――」

ジークが彼女の名前を呼ぼうとして、ファイムが既にその場に居ないことに気付いた。

気付けば足音は彼のずっと前方。丘を全力で駆け下りているファイムの姿。

「ファイム!」

「ジークさん! 村が! 家が燃えてます!」

家が燃えている?

ジークは自然に促される形で一番近い家を見た。

ドーム型の藁葺きが徐々に火の手を増している。

火事だ。

やけに煙が目に付いたのは、昨日が雨だったから。

この地方の藁は肉や野菜を燻製にする際に使う藁が良く取れる。

この地方の藁は、水をある程度吸わせた後に火を付けると、どういうわけかすごい量の煙が出ることで有名なのだ。

その藁を使ってこの村は家を作っているのだろう。空には酷く白い煙が立ち込めていた。

ただ、ジークにはこの煙が多すぎるように思えた。

一軒の火事にしては、煙の量が多いような。

そんなことを思いながらも、ジークはファイムの後を全力で追う。

担いできた袋をその場に放り出し、ジークは走り出した。

 

 

 

知ってしまえば納得良く光景だった。

無論、そのような事を安穏と言えるような状況ではないのだが、ジークは腑に落ちる。

火事にしては煙の量が多すぎたのは、その出火元が大量にあるせいだった。

一軒では不可能な量の煙は、なるほど。多くの出火元があれば優に可能である。

現在、ジークは煙に包まれていた。

まるで雲の中を彷徨っているかのようだ。

前日が雨だったからだ。完全に燃えきってしまっている家はまだ無かったが、それも時間の問題だろう。

村ではまるで稲妻の子が泣いているかのように、様々な音で溢れていた。

泣き声。

叫び声。

怒鳴り声。

そして、悲鳴と罵声。

ジークは村の小川を目印に、水瓶から必死に水を屋根に掛けている男を哀れみながら素通りし、ファイム達の家への当たりを付ける。

彼女達の家は村の中心寄りだ。家に行くにはこの白雲の中を掻き分けていかねばならない。ジークは覚悟を決め、息を大きく吸い込み、黒い外装を口に当てて白い煙の中に分け入った。

煙が目に侵入して涙を流しながらも、彼は進む。

肉の焼き焦がれる匂いに耐えながらも、彼は進む。

村は凄惨の限りだった。

燃えている家から必死に家財道具を投げ飛ばす父親らしき男。もう危ないから止めてと叫ぶ母親。それが家への入り口から見えたとき、ジークは思わず足を止めてしまいそうだった。

崩れ落ちたのだろう、屋根に足を挟まれて泣いている子供を必死に助けようと、焼けている木を必死にどかそうとしている男。ジークは助けてやりたくてしょうがなかった。

必死に叫んでいる生命への渇望に、ジークは手を差し伸べてあげたかった!

だが、彼をそうさせないのは一つのこと。

村の中心へと続く、何かを引きずったような跡。

その引きずった跡の上には夥しいほどの血。

中心に向かうにつれ多くなる、火事による焼死ではなく、明らかな斬殺。

火事場では不一致に程があるその死体の状態。

ジークが不安に駆られ、自分のこと。ひいては自分の知人の安否を気遣うあまり、救いの手を差し伸べてあげられないのは仕方の無いことだと言える。

そしてその情けなさ。

散々昨日から今日にかけて、この国を救うのだと決意表明した自分の、どれだけ無力なことか!

子一人も救えないで、どうして国を救えよう。

そう考えながらも。いや、そう考えるからこそ。

ジークは急いでその死体の並ぶ中心地へと向かう。

息も絶え絶えに、ジークがファイムの家の前に着くのと。悲鳴が聞えるのはほぼ同時だった。

その声は見知った声であり、先ほどまで彼が聞いていた声に他ならなかった。

「ファイム! どこだ!?」

ジークの懇親の叫びにまるで呼応するかのように、煙が一瞬晴れる。

家のすぐ傍にある村中央の井戸。そのすぐ近くにファイムとヒルデの姿があった。

ただ彼女たちの近くには、確実に村人ではないだろう、格好をした男達が十人ほど居て、彼女達を取り囲むように。得物を絡め取る蜘蛛のように展開していた。

男達の頭領格だろうか。強面で筋骨隆々の無精髭を蓄えた男の手には長騎剣(ロングソード)。その刀身には血がついている。

それを見てジークは、こいつ等がこの村に火を放ったのだと知った。そして、頭領格以外の武装が、あまりにも貧弱(鍬や鋤などを掲げている)なことから、都の年貢取立ての見せしめ等ではなく、野盗なのだと判断する。

「誰だぁあん? 貴様ぁ!」

鍬を持った男がジークに問いかける。

ジークはそれを無視しながらファイムとヒルデの前に立つ。彼女達の背中には、井戸。そして、ヒルデの手には少し大きな()(ひつ)がある。家財道具なのだろう。

「お前達が火を点けたのか?」

「だったらどうだって言うだよ!」

鋤を持った男が問いかけるの同時に、ジークに向かって走り込み、その得物にしては無粋すぎる。そして殺すには十分過ぎる得物を振り落とした。

だがその男の手には、いつものような肉を削ぐ感触は伝わって来ず。

片手で長い柄の部分を掴んで止められたのだという事実だけが、彼の最後の記憶になった。

ジークはその男の鋤を右手で受け止めながら、逆の手で男の鼻を渾身の力で打ち抜く。

男はそのまま地面を滑って行った。

見届けたジークは男から奪った鋤の先端付近を膝で折り、一本の棒のような形状にする。

「で、お前等が火を点けたのか?」

ジークの問いに、頭領格の男が髭を触りながらさも楽しげな顔をする。

「そうだが、おめえさんは何者だい? 何の関係がある?」

「この村には一泊させてもらった。お前等をたたき出すには十分だ」

「はっ、ほざくねえ! おめえらやっちまえ!」

その合図に、残りの野盗達が次々とジークに向かって行く。

それを彼は薙ぎ、打ち、払い、突き、流れるような仕草でそれらを片付けていく。

一人、また一人と仲間を失っていく野盗達には徐々に焦りが見える。

構図は一対九だったのだ。

それが今では、七、五、三となり。

ついには全ての野盗達は地面に伏せてしまっていた。

ファイムからはそれがまるで魔法のように思えた。

事前に打ち合わせしていたら、あのように簡単に人が倒れていくかもしれない。と取り留めの無いことを思っていた。

それほどにジークの手際は良く、効率的で。一切の手負いも無く。流れるように行われたのだった。

そうして、彼と頭領の男だけがその場に残った。

息も乱さずにジークは不適に頭領格の男に笑いかける。

おめえさんは来ないのかい?」

さっき手に入れたばかりの棒を、まるで長年使い込んできたかのように振り、構えるジーク。

「はっ、おめえは確かに強いな! だが、所詮お山の大将よ! 俺は都で十騎長をやってたこともあるだ! 逃げ出すなら今のうちだぜぃ?」

自信あり気に男は言う。

都で兵士をやっていたから、長騎剣を持っているのかと、ジークは納得いった。通りで一人だけ武装が違うのだと。

「へえ、そうかい。そいつぁーすごい」

心にも無いことを言うジーク。

目線だけで後ろを振り返り、ファイムとヒルデの無事を確認する。

「そうだろう。そうだろう! 降参するなら今のうちだぜい? 今ならその櫃さえ寄越せば許してやらんこともない

ヒルデの持っている櫃のことだろうと、ジークは思いながら、倒した男の部下達に目を配る。

殺してはいない(殺せるような武器ではないのだが)当て身なので、もしかしたら気がつくかもしれないと警戒しているのだ。

ただそんな様子は無く、今のところ敵は目の前に居る元十騎長だけだ。

「何でんなもんが欲しいだよ」

「大事そうに抱えてる時点で、お宝だと相場は決まってるんだよ!」

「はっ、小物だねえ!」

「なんだとおぉ!?」

「かかって来いよ。元十騎長様のお手並みってのを拝見させてくれ」

「後悔しても知らんぞぉ!」

「こっちの台詞だ!」

そして二人の男が走りより、お互いの得物をぶつけ合う。

無論、勝負は一瞬で決した。

十が百に勝てる道理は一切無いのである。

 

 

 

「十年早いんだっつーの」

ジークはそう言うと、頭領のに詰め寄る。男の長騎剣はジークに飛ばされ、地面に突き刺さっている。

「おめえ、何者だ? この俺が簡単に負けるなんて」

確かにこれまた肩透かしを食らったかのような速さで勝負がついた。

まるで子供と大人が喧嘩しているかのようなもので。師が弟子に稽古をつけているようでもあった。それほどにジークと頭領格の男との腕は歴然であり、打ち合う五合目には男の手から長騎剣は飛んでいた。

「さあてね? んで、まだやるかい? 都の軍に在籍してたんなら、素手でもある程度やれるだろ? 俺に飛び掛ろうとしてるの見え見えだぜ?」

そのジークの言葉で、頭領格の男の戦意は萎んでいた。

「で、お前等。こんな事しでかして、殺されても文句は言えねえよなあ?」

ジークはそう言うと、折れた鋤の先端。尖った木片部分を頭領の首付近に近づける。

「けっ、都に引き渡されるかと思えば、あんちゃん随分と物騒だねえ。ああ良い。構わんさ! 殺せ殺せ! どうせ税を払えなくなった時点で悪人なんだ。しかも国から逃げれないなら無間地獄と一緒よ。死んだほうがむしろ楽ってもんさ!」

分かってはいたが、やはりこの男達は元農民であった。

「死ぬ前に教えろや。何でおめえ、軍から抜けた。抜けなけりゃあ、こんな事に身を落すことも無かったろうに」

ジークのその言葉に、男はさも可笑しそうに豪快に笑った後、吐き捨てるように言った。

「けっ、どうして自分の守りたい物を自分で壊せるだよ。俺の出身の村が税を払えなくなっちまったからだよ! 自分でやってきただ。末路は分かるだよ! ならこうするしかねえじゃねえ!」

 

その言葉はジークにとって、一生忘れられない言葉となる。

 

この男も同じだったのだ。

自分が守りたかったものを守る為に、このような事をしているのだ。

野盗と反乱軍。

立場は違えど同じ思想だったのだ。

同じ志で軍役し。そして理想に裏切られたのだ。

そう考えた瞬間。ジークの手は止まってしまう。

 

そしてそれこそが。最大の失敗(ミス)であったのだ。

 

「ジークさん!」

ファイムの声で我に返ったジーク。

 

彼女達の方を振り返れば。

 

最初に気絶させた男が。

 

地面に刺さった長騎剣を抜き。

 

それを走りながら振りかざし。

 

ファイムに斬りかかろうと。

 

今、まさに降ろされん瞬間だった。

 

何故自分の体がこんなにも動かないのだと、ジークは自分を呪った。

目では追えているのに、何故この体は動いてくれないのだと。

ジークは叫ぼうと口を動かす。

 

「ファイム!」

 

だが、その声はジーク自身から出た声では無く。

 

ファイムを後ろから横に弾き飛ばし。

 

今まさに振り落とされん、凶刃から。

 

庇うかのように自身の身をファイムに被せる。

 

ヒルデの口から出た、叫び声だった。

 

そして。

 

ヒルデの体に長騎剣の凶刃が、振り落とされた。

 

血。

飛び散る鮮血。

これこそが。ジークの生涯掛かり続ける呪いである。

 

 

 

ヒルデのその一瞬は。ジークを覆う静止を取り除くには十分だった。

さっきまでが嘘のように。それこそ稲妻のように二人の元に駆け寄り、更にファイムを討たんとする男の手を、まさに神速と称するに相応しい速さで自分の手で男の手を握り止め。

もう片手で長騎剣を取り上げると、それを男の眉間に突き刺し、即死させた。

「ヒルデさん!」

男の屍骸を横に捨て、ジークはファイムに被さるような形になっているヒルデを抱き起こした。

ファイムは状況が上手く飲み込めていないのだろう。

何故ジークがヒルデを抱いているのかと、不思議そうにした瞬間。

ヒルデの背中からの夥しいほどの血により、地面がぬかるんでいる事に気付いた。

「え? え? お母さん?」

ファイムの状況を上手く咀嚼できないで漏れてしまっている声。

ジークはファイム手を握って、ゆっくり座らせる。

その際にヒルデを抱く彼の手が真っ赤なことで、更にファイムは混乱してしまう。

「どうしたですか!? ジークさん、怪我しちゃったですか!?」

どうしてもヒルデと怪我が結びつかない様子のファイム。無理も無いとジークは思う。

初めてだとどうしても、この手の負傷を見れば冷静で居られない。

それは特にファイムのような戦うことに縁が遠い人種だとなお更だ。

ジークは冷静に、この怪我は助からないと分析していた。

傷が深すぎる。

しかも先ほどまで打ち合っていたジークは、この長騎剣がロクに手入れされておらず、若干錆びていて、地面に刺さっていたことを知っていた。

まあ、ショック死しなかったことだけが唯一の幸いだろうか。

遺言くらいは残せるかもしれない。ヒルデにその気力があれば話だが。

「ファイム落ち着け」

「落ち着けるわけ無いじゃないですか!」

「落ち着かないと、彼女の声が聞き取れないだろ!」

最後かもしれないのだ。

いや、最後の言葉なのだ。

生きる者がきちんと聞き届けてあげないと。

ヒルデは小さくだが、先ほどから何かを喋りたそうに息を、ヒー、ヒーと言わせている。

カハッ、と血を吐くヒルデ。その姿にファイムは怯える。

自分が好きな人が口から血を吐く。怯えない方が無理だという話だ。

「ふぁ――イ」

ファイムと言ったのだろう。

自分の愛しい娘の名前を呼んだのだろう。

血が出たことで少し喋りやすくなったのか、ヒルデは咳き込みながら言葉を取り戻していく。

ただ、彼女が咳をする度に、口から。そして背中から血が溢れていくのだが。

まさに寿命を削るようなものだ。

「――ファイム」

息も絶え絶えだが、きちんとした声で、ファイムの名前を呼んだ。

「お母さん!」

「ファイム。顔を見せて」

うん、と言いながらファイムはヒルデに向き合う。

名前を呼ばれたからかもしれない。彼女は先ほどより混乱していない。

ヒルデからゆっくりと。持ち上げることも困難なのだろう。震える手がファイムに向かって伸ばされる、

ファイムはその手に、自らの顔を近づける。案の定ファイムの顔は血で汚れてしまった。だが、ファイムはそれを拭うこともせずに、むしろ自分の両手でヒルデの手を包む。

「ファイム。無事? どこも痛くない?」

「うん、大丈夫だよ。お母さんは大丈夫なの?」

私は平気。掠れた声で彼女は言った。周囲の燃える音と同じくらいの、音になる瀬戸際の声。

こんな時にまで彼女はファイムの事を心配している。

実の親子でないというのに、なんという無償さ。

むしろ満足なのかもしれない。自分が育てると決めた子を。最後の最後までそれを守ることが出来て。

ジークは一人でそのようなことを考える。正直いたたまれない。

「ファイム。大事な、話があるの」

ヒルデは静かに言う。それに彼女は頷いた。

「その、櫃を、開けて」

苦しそうにヒルデは言う。言葉を発するのが苦痛なのだろう。

でも、それを止めない。残したい言葉があるのだろう。残さないといけない言葉が。

弱弱しい喋り方。だが、強い意志の宿る言葉。

ファイムはジークに母親を預け、彼女の隣に落ちている櫃を開ける。

中には夢で着ている、いつもの衣装。

彼女が生活の足しにしてはどうかと提案しながらも、決して受け入れられることが無かった。

目が覚めるように蒼い。まるで空色のような蒼い服。

「お母さん、開けたよ?」

「服の、下」

ファイムは言われた通りに服の下を見る。

そこには、小さな箱のようなものがあった。今ファイムが覗いている根櫃よりも更に小さい櫃。拳一つ分も無い程のその箱が、服の下に鎮座していた。

「この櫃?」

ヒルデは小さく、そう、と言う。頷こうとしたようだがその挙動には苦労が多い様子。ジークはそれに首を振って制した。

ファイムがその小さな箱を持ってヒルデの元に戻る。

「開け、て」

それに頷き、ファイムは箱を開ける。

 

中からは翠色に輝く、一つのペンダント。

金色の枝のようなものが、翠の宝玉を包み込んでいる。

夢に出てきたものとまったく同じデザインだ。

 

「これって」

ファイムはずっと、自分の空想だろうと思っていた産物が、今目の前にあった。

ヒルデはそれを見て頷く。

「ファイ、ム」

ペンダントからヒルデに意識が移る。

「ファイム聞いて。貴女は私の子じゃないの」

ファイムは頷く。ヒルデは苦笑した。

笑うという行為で、再度ヒルデは血を吐き、咳き込んだ。背中から血が流れる。

血を流しすぎだとジークは思った。助からないとは分かっているが、これ以上の人間らしい振る舞いは、死期を早めるだけだと直感した。

だが、それをこの状況で言えるわけが無い。

ファイムの前でそのようなこと。

彼女も薄々は気付いているだろうが、それを明言してしまってはいけない。

「でも、私のお母さんは、お母さんだけだよ」

泣きそうなファイムの笑顔。

ヒルデはそれに、満足そうに笑みを返した。

「ありがとう、ファイム。愛しているわ」

そう彼女はゆっくりと、ロクに動かない手で、ファイムを撫でる。

金色の髪に赤が付着するが、ファイムはそんなことどうでも良い様子。

その手を愛しそうに受け入れる。

「ファイム、聞いて。貴女の両親の話」

それを最後に残したかったのか。

彼女の心残りというものはそれなのか。

ジークは考える。

彼女は昨晩、気付いたら暖炉の中で倒れていたと言っていた。そして気付いたら城は倒壊しており、そこでファイムを見つけたのだと。

いかにも面識が無いような喋り方だったし、疑う箇所も必要も無かったので何も思わなかったが、ファイムが城に居たということは、メイド長であった彼女からすればやはり見知った人間だったのろう。だからこそ助けたのかもしれない。

「貴女の両親はね」

ヒルデの声で彼は思考から戻る。ファイムと一緒に、目の前で辛そうに微笑むヒルデの言葉を待つ。

 

「ファイム。貴女の父親はジェラード様。このロートヴァルトの前国王よ」

 

瞬間、時が止まったようにジークは感じた。

ロートヴァルトの国王。ジェラード様が父親。

それはつまり、彼女は。

ファイムは王位継承権を持っているということではないか!

えっ、とどう反応して良いのか分からないのだろう、ファイムはヒルデの手を握る。

「そして、母親はベデヒティヒの王女。ハナ様。ファイム。貴女は王族の出自なの」

淡々と告げる彼女。喋るのも辛いだろう。だが、これだけは伝えねばならないという想いが、彼女を必死に喋らせる。抑揚のついた喋り方は望めないが、そのようなもの無くとも言葉は通じるのだ。

ただ、そのおかげで、どうしても現実とは乖離したような感覚を与えてしまうのもまた事実。

「そのペンダントは、正式に王位継承権を持つ者の証」

ジークはペンダントを見て確信する。

確かにこのマークは自軍の国旗に描かれた紋章(エンブレム)と同じもの。

宝玉に絡みつく木の根。

ロートヴァルトの象徴とも言えるそれだ。

「ファイム。もし自分の境遇について詳しく聞きたいならジークさんに聞きなさい」

ファイムは一瞬、ジークを見た。それに彼は頷くことだけを返す。

「でもね、ファイム」

ヒルデの言葉に振り返るファイム。

直感的に、最後が近づいてきていると、二人は感じた。

もうヒルデは長くない。

そう感じさせるほどに、彼女の体は冷たく。そして硬くなっていく。

まだ喋れることが奇跡のようだ。

「――でも、ね」

嗚呼、終りが近づいてくる。

ヒルデは一言一言。かみ締めるように喋る。朦朧としているのだろう。

ファイムもそれを聞き逃さないように。

泣きそうになりながら。

否。涙を必死に堪えながら。

嗚咽に耐えながらそれを聞く。

 

「でもね、ファイム。どう、生きるかは。貴女が決めなさい」

 

ヒルデは言った。

 

「貴女は確かに、王だけど。私の娘でも、あるのだから」

 

ファイムはついに涙を零してしまった。

 

「私は王では無いから。貴女も王である、必要は無いわ」

 

ヒルデはそれに微笑む。

 

「好きに、生きて? どちらを選んでも、お母さんは、応援するから」

 

ジークの知るヒルデとは思え無い程の、優しい語り。

意識が混濁しているのだろうか。丁寧さよりも優しさが強い喋り方。

本心が故の言葉。

仕える者としての、母としての言葉。

 

愛してるわ。ファイム。幸せにね」

 

そうして、ヒルデは静かに目を閉じた。

 

「――ああああ!」

 

ファイムはそれから泣き叫ぶことしか出来なかった。

ジークの胸の中で事切れたヒルデ。

ファイムは彼女のまだ若干の温かさを残す胸に顔を埋め。まるで声を出すことを嫌うかのように。しかし、彼女に自分の想いを全て伝えようとしているかのように。

 

ファイムは。小さき少女は/若輩の王は。泣いた。

 

それを沈痛な面持ちで眺めるジーク。

彼はゆっくりとヒルデの亡骸を地面に下ろし。

ヒルデを殺した男の眉間から、剣を引き抜いた。

「ひぃ!」

一部始終を放心したように眺めていた、野盗の頭領格の男は、ジークに睨まれ、立ち上がることもできずに尻を地面につけたまま、腕で後退していく。

彼をそうさせるのは殺気だ。

ジークが放つ相手を明確に殺すという、意思表示の先走りを敏感に感じてしまったから。

先ほどまでとは大違いの体。実力に差があったからこそ生まれていたその余裕は、今の彼には感じられない。

どこか焦っているような。苛立っているような。そして、それらを全てひっくるめた感情が、ジークの行動を後押しする。

だが、その彼の行動は、後ろからの物音で中断させられる。

「ジークさん。何をしようとしているですか?」

ファイムだった。

彼女は血だらけの顔で。首からは翠の宝玉の付いたペンダントを提げて、ジークを静かに引きとめた。

「何って。敵討ちだ。ヒルデさんを。村をこんな風にしたやつを許せない」

冷静に。静かな殺気を放ちながらジークは。まるで当然だと言わんばかりに更に一歩、歩を進める。同じく、頭領格の男も一歩下がる。

「ダメですよ、ジークさん」

「何が?」

聞く耳を持たないのか。ジークはファイムから目を逸らし、滑稽に地面から離れることが出来ない男を睨みつける。

男はいよいよ、覚悟しなければならなかった。

彼も戦場に出たことはあるが、ジークのような男は初めてだった。

ただただ、恐ろしい。不確かな生死のやり取りではなく、待つのは一方的な搾取だからだろう。男はただ恐怖を感じることしかできなかった。

だが、それを。

その滑稽だが、哀れな境遇の彼を殺すべく動く、その死神を引き止めるのは。

紛れも無く自分のせいで不幸にあってしまった、一人の少女だった。

「ダメですよ、ジークさん。それじゃあ、一緒じゃないですか」

「一緒?」

立ち止まるジーク。

「ここでその方を手に掛けてしまったら、ジークさんだってやってることは一緒です」

歯を軋ませるジーク。苛立ち気にファイムを見た。

だが、彼女が怯むことは無かった。

「じゃあ、ファイムは悔しくないのか!? ヒルデさんが殺されて、悔しくないのか!?」

「悔しいですよ! でも、悔しいからって人を殺して良いですか!?」

「悔しいからじゃない! 仇を取るだ! 彼女の!」

「母はそのような事、望みません!」

涙を浮かべながら、ファイムはそう言い切った。

「本人がどうしようもできないから。行き場をなくしてしまったから、そうやってやり場を探しているだけなんでしょ?」

「ああ。そうだ。だが、俺達は失っただぞ?」

「失ったかもしれません。でも、相手も同じ目に合わせて良いというのも違います」

「こっちが一方的に被害者じゃないか!」

「それのどこが悪いですか?」

その言葉に、ジークは絶句した。

自分が何もかも失っても良いというのか。この娘はと。

「悲しくないですか?」

「悲しい?」

「今、私。母親を殺されて、すごく悲しいです」

「そんなの。俺だってそう

やりきれない。自分にあんなに良くしてくれた人が死んでしまって。

もしかしたら守れるかもしれないという状況にありながらも、それが出来なかったことに。

彼は憤りを感じていたし、遣る瀬無さも感じていた。

「人を幸せにできるなら、したいですよね?」

「あ、ああ?」

意味が分からなかった。

「でも、悲しませたくなんてないはずです」

この言葉で、ようやくこの会話の着水点が分かった。

「人を不幸にして良い権利なんて、誰にも無い」

「だが、ファイムは現にコイツ等のせいで不幸になったじゃないか!」

そういうと、ジークは長騎剣を強く握る。

その仕草で、頭領格の男は、ひい、と漏らした。

「でも私はこの人を、自分が不幸になったからと、不幸にしたくないです。そんなの、悲しいだけです」

「じゃあ、ファイムはずっと、この先損するだけでも良いのか?」

「それは嫌です。私はもう、悲しい思いをしたくありません」

矛盾していると思った。

ジークは無性に歯がゆさを感じている。

悪いことには罰せられねばならない。これは人の共通の認識なのではないか。なのに彼女は。自分のとても大事な人を殺されても、それを殺すなという。

「なら! ファイムはどうするべきだと言うだ!? じゃあこのまま罰せられることなく、コイツ等を解放して、またどこかの村が。この村が。ファイムが不幸になっても良いのか!?」

ジークのその言葉に。

「――えます」

小さな言葉。

「え?」

小さな決意。

未完の言霊。

「ファイム?」

ジークの疑問符に。

 

「考えます。誰にも不幸にならない方法を」

 

ファイムは答えた。

それはまさしくロートヴァルトの王たる思考だ。

「――考える」

「甘いと評されてしまうかもしれませんが。どうかその方を殺さないでください」

母を殺されて一番辛いはずであるその彼女からそう言われてしまったら、ジークはもう殺せなくなってしまった。

それに、彼女は王として片鱗を既に、兼ね備えているのだと感じてしまったが故に。

これこそが、ヒルデの教育の賜物だったのだろう。

「行け」

ジークのその言葉で、頭領格の男の表情に疑問符が浮かぶ。

さっきまであんなにも自分を殺そうとしていた男から発せられた発言だとは、思えなかったからだ。しかも、少女の発言を受けての選択。

「俺の気が変わらない内に、早く行けっつってんだろうが!」

そのジークの怒声に、男はようやく本格的に逃走する為に、抜けかけていた腰を上げてその場から気絶した部下達を起こし、立ち去った。

その後姿を二人は眺め、見えなくなった後改めてヒルデの元に向かう。

既に事切れ、血溜まりを作りながら、井戸の壁を背に座っている彼女。ファイムはその姿を見て泣きそうになる。

そのファイムを慰めるかのように淡く、翠の光を放つ宝玉。絡みつく金の根は炎に照らされて、揺ら揺らと彼女の服に新たな彩色を作る。

「ジークさん」

静かな彼女の一言。

「なんだ?」

それに静かに彼も答える。

「お墓を作るの、手伝ってくれませんか?」

ファイムのその言葉に、ジークは頷いた。

「分かった。手伝うよ」

頷くファイム。だが、彼女の足はヒルデと真逆を向く。

「どこに行くだ? ファイム」

「まずは村の方を。火を消したり、逃げ遅れている人を助けましょう」

言ってはいけないことだが、ジークはすっかりそのことを忘れていた。

少し前まであんなにも助けないといけないと思っていたはずなのに、いざこの状況になってみると、それをすっかりと忘れてしまっていたのだ。

だが、この少女はそれを覚えていた。

自分の母親が死んだというのに。辛いことがあったというのに。

彼女は先ほどと同じように自分よりも他人を優先する。自分の感情よりも、人を優先させる。

本来なら、ジークはあの場で野盗を斬りたかった。だが、この少女に止められてしまった。

本来なら今すぐにでも、ヒルデの亡骸を葬ってやりたいのだ。だが、ファイムは違う。どう思っているのかは定かではないが、既に死んでしまっている人間を優先するよりは、まだ助かるかもしれない命の方に目を向けている。

そのなんと強きこと。

彼女の年齢を考えれば、まさに驚異的だ。まさしく、王の思考と言えるだろう。

ただ、彼女がどちらを選ぶかはまだ分からない。

ヒルデも言っていた。

どちらとして生きるのか選びなさいと。

もし、だ。

もしファイムが王として生きると決めたならば、自分は昨晩の誓い通りどのようなことがあっても、ファイムを守り抜こう。王を守ると。若き姫を。彼は星空の下で守ると約束したのだから。

そのようなことを改めて誓いながら、ジークはファイムと一緒に村のほうへと駆けて行った。

 

 

 

なだらかな丘の上。一面に白い香花(フラウ)の咲く丘。

こぢんまりとした石の前で、蜂蜜色の髪をした少女が祈っている。

胸には翠色をした宝玉の付いたペンダント。

王族である、王位継承権を持つ事の証である宝玉だ。

その後ろには黒い外装を着た男。

その少女に習って後ろで。立ちながらも祈りを捧げているようだ。

「ジークさん」

そう呼ばれた男は静かに祈ることを止め、石の前に居る少女の方を見る。

石には、ヒルデ、という文字。きっとこの石は墓なのだろう。

少女は立ち上がる。

瞬間、風が二人の間を流れ、彼女の長い髪が揺れた。

「ファイム?」

一向に言葉が紡がれないことから、ジークは思わず聞き返してしまう。

ざあ、と風の音が二人の鼓膜を満たす。

 

「ジークさん。私はどうしたら良いでしょう?」

 

ふと、そのような言葉がジークの耳に届いた。

「ファイムはどうしたいだ?」

「分かりません。分からないから聞いているです」

それもそうかと、ジークは苦笑した。

彼の中では答えは決まっている。

自分と共に来て、反乱軍を率いてこの国を。この状況を覆して欲しい。

これ以上、ファイムのような境遇の人間を。引いてはあの野盗のような者達をこれ以上生まないためにも。今のロートヴァルトを変える為に、ファイムには立ち上がってほしい。

だが、それは言えない。

自分の直属の上司であるクラウスはどう思うか分からないが、自分にはファイムを連れて行くことはできない。

自分の意思で無い限り、彼女は王でないのだ。

もし、王になることを選ぶのであれば、自分は誓い通りに彼女を一生守りぬく。

だが、そうでない場合。

市井に溢れる民のままが良いと彼女が言うのであれば、彼は何もすまい。

そのように彼は決心しているのだ。

何も出来ないなりに、自分の中で“考えた”結果だ。

「いきなり、王族の血を引いているとか言われても、いまいち納得できません」

それはそうだろう。親が判明したところで何かが変わることは無いのだ。ファイムはファイムだ。

「ヒルデさんも言っていた。王族の血は引いてるけど、ヒルデさんの子でもあるだ」

はい、と小さくファイムは返答する。

「ジークさん。お母さんが言ってました。私の境遇はジークさんに聞きなさいって」

彼は頷く。

「教えてくれませんか? 私の境遇を。これからを生きる為に」

それからジークはファイムの生まれ故郷、ベデヒティヒのこと。このロートヴァルトのこと。国家間の情勢、治安。そして、自分が現状を覆すための反乱軍に属していること。その全てをファイムに語る。

「そうですか」

全てを聞き終わり、ファイムは一言そう漏らす。

二人はすっかり焦げてしまい、活気の無いカープフォートを見下ろした。

雨季だというのに今日は晴れており、運が悪かったのかもしれない。

雨だったらここまで被害が広がることも無かっただろう。

その凄惨な状況を。二人は眺める。

「私は、どうしたら良いのでしょう?」

ファイムは静かに。先ほどと同じ事を言った。

「ファイムはどうしたいだい?」

先ほどと同じやり取り。

「分かりません。分からないから聞いているです」

やはり同じ流れ。

「悲しい経験をしました」

ようやく違う流れになり、ジークはそれに頷いた。

「このような事が日頃、このロートヴァルトで起こっているですか?」

ファイムは振り返り、ヒルデの墓の前に歩いていく。

「そうだ」

ジークは熱弁したい気持ちを抑え、素っ気無く返す。自分の意思で王を作ってはいけないと考えているから。

「ジークさんは、私を必要としているですよね?」

ファイムは自信なさそうに問う。

だからこそ、ジークは答えた。

「いや、必要としていない」

え、と途端に不安そうになるファイム。

 

「ファイムを必要しているのは俺じゃない。この国だ」

 

ジークはそう言った。

「この国が、私を――」

頷くジーク。自分の意思ではない。自分の意思で王になって欲しい。立ち上がって欲しい。そう考える。

人の為に立ち上がるのではない。それは逃げだ。

国を憂いて立ち上がって欲しい。それが引いては人の為になるのだから。

彼はそう考えている。

「私は」

ファイムはそれに静かに紡ぐ。彼はそれに頷く。

ヒルデの墓の前で彼女は自分の運命を。人生を決定付ける為の表明をする。

 

「私、これ以上、悲しい思いを、みんなにしてほしくありません」

 

ヒルデはどう思っているだろうか。とジークは考える。

彼女はこの展開をどう思っているのだろうか? 喜んでくれていたら嬉しいと、彼は思った。

「私、どうすればこの国の為になるのか、分からないです。意思はあるのに、どうすれば良いか」

ジークは満足げに頷く。ファイムは少し泣きそうだ。

「だから、手伝ってくれませんか? 教えてくれませんか? 私がどうすれば良いか」

ファイムは涙を零してしまう。決意表明だというのに。ヒルデのことを思い出しているのかもしれない。もしくは、これからのことに対する不安。どちらともかもしれない。

「私にはなんの力もありません。でも、国を変える為に、そんな私が必要なのだというなら!」

嗚咽交じりに王は泣く。

そのような姿、本来見せるべきではない。そういう意味ではまだ彼女は王ではない。

だが、全ての資格を持つ彼女。ジークは未来の王。今は未完の王の前に立つ。

 

「私は、この国を覆う悲しみを断ち切りたいです。協力しください」

 

ジークはそれに、仰せのままに。と(かしず)いた。

この日。ロートヴァルト史における、八番目の王が誕生した。

 

ロストプリンセス第一話/了