第三話【マザーシステム】
「彼女が可笑しいんだ」
依頼者の第一声目はそれであった。変声機を通していないのは特定されても良いということなのだろう。そもそも自身の彼女のことを相談しているのに身元を明かさないということはありえないと思い立ち、忠昭は心の中で自身に皮肉を言った。
季節は夏に移り変わった。現在は夏休みの真っ只中である。寮に住んでいる忠昭達は毎日のように秘密倶楽部の部室に集まり、思い思いの時間を過ごしていた。
夏休みになることで途端に依頼者は少なくなった。そもそも校内に人が居ないのだ当たり前だとも言える。
夏休みに入って四日目。夏休みの課題を忠昭と彩の二人で片付けている最中にノックが聞えてきた。
「すいません。その前にどのようにお呼びすれば良いでしょう?」
彩はそういうと、曇りガラスの向こうから、あ、そうか。と聞えてきた。入室時のルールや手順など無いから戸惑うのも無理は無いなと忠昭は思った。依頼者の八割は大抵このようなやり取りから始まるからだ。
「三年一組の小沢 和也だ」
三年生がこの部を尋ねてくることはあまり無い。それは部長の彩が二年生であることが大きいだろうと忠昭は思っている。悩んでいるとはいえ、何だかんだでプライドが優先されるのだろう。三年が二年に相談するということは恥ずかしいと思ってしまうのだ。
だからこそ、三年生の場合そのような感情を勝るほどに悩んでいる人が尋ねてくる。つまり、この依頼人は厄介な相談を持ち込んできたのだろうな、と彼はゆっくりと課題のプリントから消しゴムの屑を払った。
「小沢さんですね。それで、彼女さんが可笑しいというのは?」
彩も同じ見解なのだろう。姿勢を正し、凛とした声で姿の見えない小沢の対応を始めた。
「ああ。夏休みが始まってから彼女と一緒に遊びに行くことが多くなったんだが、どうも付き合い初めと今とじゃあ様子が違ってるんだ」
それは当然の流れなのではないかと忠昭は思った。付き合って時間が経つのにいつまでも初々しい態度や感情を取れるのは可笑しい。
彩も同じようなことを丁寧に指摘したが、どうやらそのようなことではないらしい。当たり前かと忠昭は小さく鼻を鳴らして笑った。そんな簡単なことでは依頼に来るはずも無いかと。
「なんて言うんだろうな。俺も結構付き合った人数が多いからそういうのは分かる。だけどそれは慣れてきたって感じだろ? そうじゃなくて、なんていうんだろう。彼女は彼女なんだが、中身が入れ替わった、っつうんかな。意味分かんねぇだろうけど、そんな感じで。激変したわけじゃないんだ。性格が真逆になったとかじゃあ。でも、様子が可笑しいんだ。それも急に。きっかけがまるで思いつかない」
そんなこと相談されてもと忠昭は思ったが、彩の真剣な様を見て自重した。
「違和感、ということでしょうか?」
「違和感! なるほどな違和感だ。さすが噂通りだな。そう。違和感があるんだよな、彼女に。異物が混ざったような。オムライスに卵の殻が小さく入っててもそれはやっぱりオムライスみたいな」
小沢の言いたいことは何となく伝わった。本質は変わらないということなのだろう。
「変わってしまったきっかけが分からないのですね? きっかけが知りたいのですか?」
「そう、なのか? いや、ちょっと待ってくれ」
「変わってしまっても良いのですか? それとも元に戻って欲しいのですか?」
「い、いや。そうだな。とりあえずきっかけを知りたい。でないと自分勝手過ぎる」
その発言で、少なくともこの先輩は悪い人ではなさそうだと忠昭は思った。相手を少なくとも理解しようという意思が感じられる。ただ、何故そのような人がこのような事態になっているのかと、忠昭は少しだけこの依頼に興味が湧いた。
「分かりました。それではそこの机にある紙に連絡先などを記入して、今日はお帰りください」
彩の言葉に、分かった、と小沢は返事すると小さく鉛筆が机を叩く音がした。
◇
「さて、彩どうするの?」
小沢が部屋を退出したのを確認して、忠昭は伸びをした。基本応対は彩がすることになっている為、相談者が退出するまでは原則黙ったままで居なければいけない。伸びの後に肩が凝ったわけではないが、忠昭は肩を回しながら彩に問いかけた。
「そうですね。先ずは小沢さんの彼女さんのことを知らないと何とも言えませんね」
「そうだね。それに小沢先輩は三年一組だっけ? 先ずはどんな人なのかも知らないと」
「静香なら知っているでしょうか?」
そういうと彩は携帯を取り出してメールを打ち始めた。今静香は郊外でデザートの食べ歩きをしているらしい。今回はそのような記事を書く為に集計を取り、実際にそれを食べて感想を書くのだそうだ。
「あぁ、着ました。さすが静香は早いですね」
二分もしない内に返信が来たのだろう、ヴゥゥ、と彩の携帯がテーブルの上で振動した。
「なるほど」
「なんて? ちょっと見せてよ」
彩は忠昭に携帯を差し出すと、コップに手を伸ばした。
返信の内容を纏めると、小沢和也は相当女性受けが良いらしいく、本人も多くの女性と交際経験があるらしい。小沢が現在付き合っている彼女は三年二組の小野田 真央。美咲と友人だそうだ。
「ん、飲み干したってことは、図書室に行くんだね」
「はい。ですから忠明君も」
「了解っと」
彼はそういうとコップの中の緑茶を飲み干した。清涼感と柔らかな渋さが舌と喉を濡らした。
◇
図書室の中は埃やカビの匂いなどせず、かといってインクの匂いすら漂わせずに冷房の人口的な涼しさのみに満ちていた。
「相変わらずここは涼しいね」
「涼しすぎますけどね。少し寒いくらいです」
彩は寒がりだと忠明は思いながら、目的の人物を探す。カウンターの奥の窓で発見する。その人物は奥の部屋で本を読んでいるようだ。
カウンターに居る下級生に断って部屋に入っていく二人。
ドアを開けると小さな鐘の音が鳴った。
「失礼します」
「あら、どうしたの二人とも」
鐘の音に顔を上げた女性は、柔和な笑みを二人に向けた。
藤野 美咲。秘密倶楽部の一人で三年生だ。普段は図書委員をやっており、放課後か夜のどちらかだけ秘密倶楽部に参加する。
長い黒髪と悩ましげに膨らむ大きな胸は強く女性を感じさせ、物腰は柔らかく、彩のような丁寧さはあるもののそのゆっくりとした口調のせいか、優しい印象を覚える。心身ともに柔らかそうな女性がこの美咲という幼馴染であった。
「美咲に用事がありまして」
彩がそういうと美咲は微笑むと立ち上がり、読んでいた本に栞を挟み二人にパイプ椅子を勧める。
二人が座るのを確認して、美咲は彩にブランケットを差し出した。
「それで用事って?」
「美咲さん、小野田 真央さんと友達なんだって?」
「真央ちゃん? ええ、友達よ?」
頭に疑問符が浮かんでいるのか、少しだけ顔を傾けて返事をする美咲。
「最近何か変わった?」
「そうねぇ? 最近は夏休みだから会えてないわねぇ」
その返答に顔を見合わせる二人。その様子を美咲は楽しそうに眺めている。
「今日は依頼で来たの?」
「そうです。真央さんの彼氏の小沢さんが依頼してきたんです」
「あらあら? 小沢君が?」
「最近真央さんが変わってしまったのでそのきっかけが知りたいと」
忠明がそう説明すると美咲は右のこめかみに人差し指を付け、ゆっくりと目を閉じて、何か考えはじめたようだ。実にマイペースな人だとこれを見るたびに彼は毎回思うのだった。
「何かあったのかしらねぇ?」
「はい、それを調べようと思って静香にメールしてみたら、真央さんと美咲さんが知り合いだって聞いて」
「あらあら、静香ちゃんは良く知ってるわねぇ」
そう美咲は苦笑すると、彩は頷く。
「それで美咲にいくつか質問があるのですが、良いですか?」
「もちろんよ〜。私だって秘密倶楽部の一員ですもの。力になるわ」
ゆっくりと気が抜けるような早さで彼女は同意した。
「先ず、どれくらい二人は仲が良いんですか?」
「そうねぇ、二人の気が向けばお買い物に出かけるくらいには仲が良いわ」
「最近は会ってないのですか?」
「最後に遊んだのは夏休みに入る前ね。終業式の日に一度お買い物に行ったのが最後かしら?」
四日前だ。
「そのときは何か変わった様子は無かったのですか?」
「そうねぇ。あまり意識しなかったわね。元気が無かったというわけでも無かったし」
「何か変わったということに心当たりとかはありませんか?」
「うーん。もし本当に変わったのならば、小沢君の方が詳しいと思うんだけどねぇ。毎日のように一緒に居るのでしょうし」
彼氏彼女の関係なのだから当然だ。でもその当人からの依頼だ。本当に理由が分からないのであろう。そもそも分かっていたら依頼などしない。それは自分の無能を証明しているようなものなのだから。
「ああ、でも――」
忠明の思考を中断するように美咲は呟いた。
「最後に会った日は楽しかったわ」
「えっと、どういう意味ですか?」
「言葉どおりの意味よ? 時間がゆっくりしていたというか。いつもより二人の距離が近かったわね。私と真央ちゃんのだけど」
「いまいち分からないのですが」
「えっとね。真央ちゃんって基本的に静香ちゃんみたいな性格なのよ。活発でいつも鈍い私を引っ張ってくれるようなね。けれどその日の真央ちゃんは私に合わせて動いてくれていたのか、疲れなかったのよね。カフェでお喋りも沢山して、楽しかったわ」
それが変わったことなのだろうか? それは変わったというより単にそういう気分だったとか、それこそ疲れていたからとかではないのか? 等と忠明は自分の考えを張り巡らせる間にも、二人の会話は続く。
「小沢さんと真央さんの仲は、美咲が見ても良かったですか?」
「そうね。お似合いだったと思うわ。真央はハキハキしているし、小沢君は行動力があるから。相性が良かったと思うわ」
「小沢さんの不満とか漏らしていませんでした?」
「んー、無かった、かしら? それこそ普通の恋人達がするような小さな不満は言っていたけれど、それって要は自慢の延長線みたいなものじゃない? はっきりとした不満は少なくとも私には言ってなかったわ」
美咲も詳しくは分からないのだろう。いや、違和感こそあれど変わったという認識がないようだ。
「というか、変わったきっかけっても、僕達は小野田さんを知らないから比較のしようがないよね」
「そうですね。だからと美咲越しに心境の変化を直接聞くのは守秘義務の放棄ですからね」
「そうだね。直接聞くのは――ああ、直接聞くのが駄目なら間接的に聞けば良いじゃないか」
「それは、未来に頼むということですか?」
忠明はそれに頷いた。二人の間に上がっている未来という名前は幼馴染の一人だ。上野 未来という名前の一年生である。
「う〜ん、そうすればすぐに分かるかもしれないけど、未来ちゃんは嫌がるでしょうね。それに昼間はずっと寝ているじゃない」
美咲の言葉に忠明は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。未来の気持ちまで考えてあげられなかった自分を恥じているのだ。彼女はそのような行為を嫌っている。
「それでは少し整理してみましょう。問題が解決しないのは、問題の内容を理解していないからです」
彩の言葉に仕切りなおした二人は姿勢を正した。先ほどのものは彩が仕切りなおす際に使う言葉で、今回もやはりそれが使われた。
「本日、小沢先輩が秘密倶楽部に訪れ、彼女である小野田真央に関する依頼をなされました。内容は言葉にできないが違和感を覚える。その正体を探って欲しいというものです」
忠明と美咲はそれに頷く。三人の認識は強固なものへと変わった。
「さて、人が変わる瞬間とはどのような場合なのでしょう?」
「ん〜。やっぱり価値観を揺さぶられた時じゃないかしら」
「うん。自己啓発とかもそうだし、意識改革が良くも悪くも成功した時じゃないかな」
「そうですね。ですが人は簡単には変われません。それが容易いのであればこの世は聖人君子だらけになるでしょうから。全員争いなどできればしたくないでしょうから」
「つまり、価値観が変わるほどの大きな出来事に遭遇したということよね」
美咲の言葉に彩は頷く。膝に掛けられたブランケットの上に組まれた手が強く握られる。
「そのような事があったのを美咲は知りませんか?」
「――ごめんね。ちょっと覚えが無いわ」
「そうですか。これは聞き込みをしていくしかないですね」
「聞き込みって、小野田さんに何か大きな出来事がありましたかって聞くの?」
彩の頷きに忠明は溜息を吐いた。
◆
「しず姉。デザートの次は何なの?」
「にゃはは〜。みくっちは駄目駄目ですね。デザートじゃなく、スイーツです。スイーツ」
「一緒だよ。デザートもスイーツも」
静香は人差し指を横に振りながら夜の街を歩いている。そのすぐ後ろには上野未来。肩まで伸びた黒い髪を揺らし、夏だというのに陶磁器のような白い透けた肌は、日頃外を飛びまわっている静香とは対象的だ。身長も低く、体つきも痩躯の一言に尽きる。強く握れば折れてしまいそうな小枝のような指。その左の親指にはピンキーリングは光っていると表現すれば、如何に彼女が細身であるか分かっていただけるに違いない。あまり表情が変わらず、無機質な印象を受ける。更に口調も中性的であるから尚更だ。そんな少女のような彼女もまた、秘密倶楽部の一員である。
そんな彼女は静香の隣を眠たそうな顔で歩いている。静香に夕方から呼び出されて今に至る。食事を奢るから付き合って欲しいという申し出に、特にやることが無かった未来は、十分に間を取った後にそれに承諾したのであった。
夏休みに入り、堂々と日中寝て過ごしてもお咎めが無くなった彼女は、まるで解き放たれたかのように毎日を昼寝で過ごしている。精力的に外に出向く静香とは真逆と言えるその生活は今日で二十日となった。夕方に目を覚まし、夕食と夜の部活のみに参加して寝る。この生活を毎日続けている。秘密倶楽部の面々。特に静香や彩などは色々と言うが、未来はこの生活がとても気に入っていた。
「もう、相変わらずみくっちは世間に取り残されていますね。寝てばかりでテレビや新聞を見ないでしょう? 名前が未来と書くというのに、過去を生きていますね、みくっちは」
そう溜息を吐く静香に未来は、少し足を急がせ静香に並ぶ。
「それはそっくりそのままお返しするよ。しず姉だって静香と書くのにちっとも静かじゃない。お互い様だよ。それに新聞は読まないしテレビも見ないけど、本は読むもん」
幼馴染のみで結成されている秘密倶楽部で唯一の一年生だからだろう。昔から彼女は面々の事を兄と姉のように扱い、そのように呼ぶ。未来はからかう姉にむくれる妹のようだと内心苦笑しながら反論した。
「本って美咲さんが薦める本ですか? 純文学ばかりでしょう? 本当に過去にしか生きていないですね」
「うるさいなぁ。しず姉は本当にうるさい。読まないより良いでしょ。それに、しず姉が書いた新聞はちゃんと全部読んでるもん」
「えっ、あー、ありがとうね、うん」
未来のその言葉で途端に気恥ずかしさを覚えたのだろう、静香は途端にしおらしく俯いた後に、にゃはは、と未来に笑いかけた。
「それで結局、でざ――スイーツの特集の次は何なの?」
「ええ、デートスポット特集ですよ」
「――うん、それは薄ら寒いね。相手が居ないから尚更」
「にゃはは。哀れに思うなら付き合ってください。そのような場所に一人で行く勇気は流石に無かったので」
未来は、仕方ないなあ、と呟きながら苦笑する。静香もそれに微笑むと二人は夜の街を歩くことになった。
しばらく歩くと彼女達の前方から学生服の団体がこちらに歩いてくるのが分かった。夏休みという学生の身分から解き放たれる時期に白い夏服と気だるさ、そして解放感を身につけた団体が雑談でもしているのだろう、笑いながらこちらに流れてきている。
「塾帰りですかね。お勤めご苦労様ですねぇ、本当に」
「三年生は仕方ないよね。受験生だし。――うん、皆疲れているみたい」
そうですか、と静香が呟くと相手もこちらに気付いたのだろう、少しばかり道を譲りながらやはり雑談に興じているようだった。
その団体の中に一人だけ浮かない顔をしているのを、静香は発見する。それは彼女の顔なじみで、だからこそ気付いたのだろう、彼女は一団の後ろを少しばかり離れて歩く暗い顔をした男性に話しかけた。
「にゃはは、池田先輩こんばんは。調子悪いのですか?」
「ん、ああ、水瀬か。こんなところで――ああ、いや。取材だな」
「ええ、正解です。デートスポットランキングです」
「まったく、未だにメインで記事は書いていないんだな」
「にゃはは、耳が痛いですね」
「お前はいまいち文才が無いからな。いい加減こっち一本でやればそれもマシになるだろうに」
「いやいや、私はこのスタンスが好きですので」
「相変わらず向上心が無い奴だ」
池田という三年生の苦笑に静香もそれを合わせた。彼は静香の所属する新聞部の部員で静香に色々な世話をした人物だった。三年になり少し早い引退をしてから今まで、学業に専念している。
「それでその子は? 水瀬の妹か?」
「いやいや、この子は――」
「日計高校一年の上野未来です。よろしくお願いします、先輩」
「それは失礼。すまないね」
体格的に年相応に見えず、私服な為に判別し辛いのだろう。池田は非礼を詫びる。その様子に静香は少しだけ首を捻った。
「先輩疲れているんですか?」
「いや、疲れているわけではないんだが――」
その台詞を打ち消すかのごとく、未来は、そうですね、と口を挟んだ。
「何かお悩みなのでしょう? 秘密倶楽部で相談に乗りますが?」
その言葉に、池田は文字通り息を呑んだ。
◇
「それで、先輩お悩みというのは?」
取材があったのでその日は解散となり、後日お昼に三人はファミリーレストランに集まった。静香と池田は珈琲を飲みつつ対面している。静香の隣には未来。本来なら寝ている時間に起きているせいか、どこか呆けながら、池田からの奢りだというホットケーキにナイフを入れていた。
時間も時間だからだろう。学生やお昼を食べに来た社会人とでレストランは騒音に溢れている。その音に紛れるように静香と池田は喋り始めた。
「ああ、くだらないことだと思うかもしれないが」
そう池田は前置きして、珈琲で口を濯いだ後に喋り始めた。
「小沢和也って知ってるか?」
意外な名前が出たなと静香は思った。池田と小沢はどちらかといえば方向性が逆だからだ。少々性格が軟派だが外交的で女子生徒に人気がある小沢に対し、池田はどちらかといえば職人気質で取材以外の時は常に眉間に皺を寄せているようなタイプなのだ。
それに、その名前は約二週間前に聞いたばかりだ。
「ええ、知っていますよ。人気ですからね、彼」
「二年のお前が知っているということは本当に人気なんだな」
「そうみたいですね。私はタイプじゃないのでアレですが」
その言葉を聞いて池田は苦笑した。
「そう言うが、お前はどんなタイプが好きなんだ? 一年以上一緒に居るがさっぱりだぞ」
「にゃはは〜。そうですねぇ。私はどちらかといえば切れるタイプが好きですから。ルックスよりも仕事ができる人の方が好みですかね」
静香がそういうと池田は、それだ、と呟いた。
「なんです?」
「それなんだ、俺の悩みは」
「はぁ? まったく意味が分かりませんが」
「自慢しているわけじゃないが、俺は一足先に部活を辞めて受験に向けて勉強しているからな、相当に成績が良い」
いきなり何を言い出すのかと静香は思ったが、とりあえず相槌を打つことにした。隣では未来がジュースを飲んでいる。少し大きめのパンケーキに苦戦しているようだった。
「塾の中でも良い位置に属してはいるんだが、少し前にな。俺の通っている塾にその小沢が入塾したんだ」
「へぇ。想像できないですが、まぁ可笑しくは無いんじゃないですか? そろそろ勉強を始めないと思っての行動でしょうし」
「ああ、それは別に可笑しくない。担任も耳にタコが出来るほど勉強しろと言う時期だからな。アレは軽く洗脳だ」
その光景を思い出したのか、池田は苦笑しながら珈琲に口を付けると話を続ける。
「だが、まるでアレは別人のようなんだ」
「と、言いますと?」
「今までチャランポランだった奴が、いきなり塾内のテストで好成績なんだ。正直俺と同じくらいの成績はある。アイツの志望校ならば軽くA判定だ。俺と同じ所だとBだがそれは置いといて、急すぎるんだよ」
「いきなり成績が向上したのが、ですか?」
「ああ。今まで中間や期末で赤点を取り続け補習を受けていた奴が、この数日でまるで人が変わったかのようなんだ」
良く人の点数まで把握しているな、と静香は思った。
「人が変わったようですか」
「ああ。授業も真面目に聞いているし、本当に別人のようだ。偶々ヤマが当たったとは思えない。実力で点数を取ったんだろうと思えるほどの豹変だ」
「それが悩みなんですか?」
「まあ、恥ずかしい話だがな。どうしても気になって勉強に集中できない。こればかりはジャーナリズムを齧った者の性だな」
静香もそれに頷いた。彼女もまた不可思議を暴きたいという欲求を持った一人だからだ。
「小沢先輩が変わった。いえ、豹変した理由ですか」
個人のことだ、記事にできないとどこかで彼女は思いながらも、自分の好奇心という炉に明かりが灯ったのも感じた。
世話になった池田が困っているのだから助けたいという建前と、仮説を立て辛い程に様変わりした理由を暴きたいとという本音。
「嫉妬、ですか?」
一言、水面に小石を投げたように静かに。だが無視できない音を未来は口にした。
「みくっち?」
「今まで軽蔑しながらもどこか憧れていたのですか?」
「上野さん、だったか? 何故そう思ったんだ?」
「――なんとなくです。忘れてください」
沈黙が流れた。
周囲は騒がしく食事しているというのに、三人の座るテーブルだけ無音になってしまう。
「にゃ、にゃはは。とにかく池田先輩の悩みは分かりました。私なりに調べてみますから後で連絡しますね」
「あ、ああ。すまないな」
「いえいえ、先輩の為ですから。ほら、みくっち、行こ」
「え? しず姉、まだ残って――ああ。うん分かった」
「それでは先輩、ご馳走様です。勉強も頑張ってくださいね」
そういうと静香と未来は駆け足で店を出た。
テーブルに取り残された池田は一人窓を見ながら、聞えてくるはずの無い蝉の声を想像した。
◇
ファミリーレストランから出た二人は、学校の図書室に居た。静香は溜息を吐きながら椅子に座り、襟を上下に振っている。未来は対面する形でテーブルに身体を押し付け、やはり溜息を吐いていた。
「こんな昼間から外に出るなんて、狂気の沙汰だね」
「なにを引きこもりのような発言してるんですか。まぁ、貴女は引きこもりのようなものですけど」
「私学んだよ。暑いと反論する気にもならないんだね」
二人はしばらくの間涼を取り、暑さが気にならない程度に持ち直すと静香はまだ潰れている未来に話し掛け始めた。
「池田先輩が小沢先輩を憧れていた、ですか」
「憧れより羨ましいの方が近いと思うけどね、感覚的に」
「なるほど。私が彩さんや美咲さん。たまにみくっちを羨むのと同じような感じですかね」
「たまに何だ? まぁ、良いけど。それでどうするの?」
そうですねぇ、と窓の外を眺める静香。黙ってしまった静香の様子を窺うように、ゆっくりと未来も身体を起こし、彼女の視線を追う。外からは蝉の求愛は聞えず、図書室は冷房の音に占拠されている。
「何を黄昏ているの、二人とも」
二人が振り向くとそこには美咲の姿。
「ああ、美咲さんこんにちは」
「みさ姉だ。この時間だと新鮮だね」
「はい、こんにちは。未来ちゃんがこの時間に起きていると新鮮ね」
美咲はそういうと二人に手招きをする。
「こっちにいらっしゃいな。そこじゃあ飲食が出来ないから。何か飲むでしょ?」
彼女の発言に二人は喜んでカウンターの奥の部屋に入って行った。
◇
「見事に誰も居ませんね」
「ふふ、おかげで毎日ゆっくり読書できるわ」
ペットボトルのお茶を飲みながら静香は美咲と対面する形でパイプ椅子に座っている。
未来は椅子をベッドのように並べ、美咲の膝を枕にしながらブランケットを布団にして寝転んでいた。
「今日は二人とも何をしていたの?」
未来の頭を撫でながら美咲は微笑む。二つ歳が離れているからか、未来は美咲の事を一番慕っており、美咲もまた未来の事を妹のように可愛がっていた。
「今日は元新聞部の池田先輩の悩みを聞いてました」
「あら、秘密倶楽部の活動をしていたの?」
「成り行きでそんな感じですね。彩さんには今日の夜に報告しようかと」
「未来ちゃんは付き添い?」
「うん、しず姉に付き添っていたら成り行きで」
「そう。大変ね」
そう美咲が微笑むと未来も嬉しそうに笑った。まるで以心伝心であるかのようだ。
「池田先輩の悩みが小沢先輩に関係があるようなんですよ」
「池田君の悩みが? あまり接点がなさそうに見えるけど」
美咲の最もな発言に静香は頷くとこれまでのことを説明し始めた。
「急に変わってしまった理由、ね」
「ええ、そうなんですよ。それが気になって勉強に集中できないんだとか」
「――そう。池田君も大変ね」
そう苦笑する美咲を未来は、じっと、見つめている。
「未来ちゃん? 駄目よ、勝手に覗いちゃあ」
「――ごめんなさい」
それに美咲は何も言わず、ただ笑顔で答えた。その笑顔に未来は膝の上にうつ伏せになってしまう。
「それで、静香ちゃんはどうするの?」
「そうですね。先ずは小沢先輩の周囲から調べてみようかと思います」
そう、と美咲は呟きながら再度未来の頭を撫で始めた。どこか遠くを見るような表情をする美咲に静香は首を傾げながらも、とりあえず自分の知る限りで一番小沢に詳しい者に連絡を取ることにした。
◆
私は優越感に囚われている。
小さい頃からそうだ。自分の事は自分が一番分かっている。自分の事を分からないなんて阿呆だ。そう断言できるほどに自分の性格は善人ではない。誰よりも優れていたい。羨んで欲しい。賞賛してほしい。誰からも愛されたい。そんなことを幼少から無意識的に。そして現在は意識的に自分をごく自然に知った。
故に影で努力もした。
一番になるという優越感を得るためには、人一倍。いや、自分が優秀でないと知っていた自分は人の二倍は努力した。
そして何かしらの事で度々優秀な成績を収めて称えられ、賞賛を浴びることに陶酔していくのを、確かに自分は感じたのだ。
高校生になって(やはり)自分が井の中の蛙でしかないことを知った。
否。見て見ぬ振りが出来なくなったのだ。
如月彩。
正真正銘、あらゆる点で私の上を行くお嬢様である。
所詮庶民である私とは生まれも違うし、育ちが良いのだろう、いちいち振舞いに気品のようなものが漂う。そんな彼女は文武両道であり、私の努力をあざ笑うかのように、あらゆる点で彼女は私の頭上に重く圧し掛かったのだ。
けれど、私はあの優越感を知っているのだ。まるで麻薬のように、脳内で花火が弾けるかのように。あの極上の快楽を知っている私は、どうしてもその障害を押しのけ、それを得ないと狂ってしまいそうだった。
それほどに優越感という快楽は蠱惑的に私の脳髄を麻薬に漬すのだ。
一年の秋。期末試験で私は、ついに如月彩より上位の成績を収めることが出来た。無論彼女より成績の良い者は居たが、それらの上位陣より如月彩が総合的に人間として勝っているのは明らかだった。
そして私は入学して半年以上経ったその日に、今まで感じたことの無い程に強烈な快楽を得たのだ。私はあまりの快楽に一頻り髪を掻き毟り、枕に顔を埋めながら叫んだ。危うく失禁してしまう程に強烈なその快楽と高揚感は私を更に虜にするには十分過ぎるほどであった。
障害が大きければ大きいほどに、それを乗り越えた時の達成感は大きくなる。それを改めて実感した私は初めて、今まで煩わしいだけの存在だった如月に初めて、感謝をしたのだ。無論、その瞬間だけであったが。
それ以来、私はあらゆる点で今まで以上に彼女を意識することになった。あの快楽を得るためには、如月を踏み台にするしかないと知ったからである。
より意識するようになり、その障害を毎回乗り越えるのは困難であることを再確認した。如月彩は優秀過ぎるのだ。故に障害としては適しているのであろうが私のような、勝ちたいだけの存在からすれば考え物だ。障害に勝てないのであれば、当たり前のように快楽は得られない。それ故に次第に欲求不満が溜まっていくのは当然だと言えた。
ストレスだ。
勝ちたい相手に勝てない。故に意識をするが、やはり勝てない。
全てを否定されているかのような感覚だ。今までの人生で味わってきた相手を心の中で罵れるあの幸福感は反転し、所詮如月に勝てないのだ。無駄な足掻きだと影で揶揄されているように疑心暗鬼を募らせる日々が続く。
自分の事を知っている私は、自分の中にどこか諦めに似た、腐っていくような感覚の芽生えに気付き狼狽した。
今までの優秀であった自分では無く、ただの学生になりつつある自分を発見したのだ。
もう二度とあの形容し難い、爆発しそうな刹那的な快楽と、じわじわと称え続ける周囲の声が、自分のものでなくなってしまうのだと思ったら、自分が自分でなくなるような、やはり形容し難い破壊衝動に囚われるのだ。
そんな時、私はこの学校にカウンセリングというものがあるのだと知った。今まで小学生の頃から自分を褒め称えてくれた、私の表面しか知らない友人が何か思うところがあったのだろう(検討は付くが)私に知らせてくれたのだ。
自分の事を良く知っていた自分は、悩みなど知っていた。悩みを知っている私はその解決法まで熟知しているのだが、やはり腐っていく自分を見て焦っていたのだろうし、仲良くは無いが長い付き合いでもある友人の言葉を優等生である私は無碍に出来なかった。それに。その解決法は酷く困難であることも承知していたので。
そして私は、日計高等学校専属のカウンセラーである芳野 良太郎に出会ったのだ。
◇
一言で言えば、芳野は優秀なカウンセラーであった。
香の匂いの残る部屋に入るたびに、芳野は私に大人の笑みを浮かべた。
「こんにちは杉内さん。今日から夏休みなんだって?」
笑ってはいるが本心からではないだろうと思う笑顔で話しかけてくる芳野。私はそれに頷いた。
「はい。ですが夏休み明けにテストがありますから。あまり遊んでいられません」
芳野には全て話している。自分が優越感を持ちたがる人種だということも。如月を意識していることを。
話すことで楽になったのかそれとも芳野の手腕なのか。どちらにせよ私の成績はカウンセリング室を叩いた冬から向上し、今では如月を安定して上回るようになった。芳野が優秀かそうでないかはどうだって良い。結果が出ているのだ。優秀だと評価するには十分だ。
「ふぅん。それで、今日はどんな用? 遊びに来たの?」
馬鹿なことを言う。遊んでいる暇があったら自分を磨く時間に当てた方が有意義だ。それに芳野と遊ぶという場面なんて想像できない。
「いえ、お香が切れたのでいただきに」
「ああ、なるほど。それじゃあ八百円ね」
私は彼にお釣りが出ないように丁度四枚の硬貨を渡して、受け取った紙袋をバッグの中にしまった。
冬の日から私の日課に、夜お香を焚きながら勉強をするという習慣が加わった。その一手間は精神的に作用するものがあったのか、単に相性が良かったのか。それとも思い込みに過ぎないのか。どちらにせよ清々しい気分になるというお香を焚くことで私の成績は向上した。それこそ嘘のようにという言葉が符号するほどに。
「ああ、あとこれね」
芳野はそういうと、茶色の紙袋とは別に白い紙袋を差し出した。いつもながら義理堅い。
「ありがたく受け取っておきます」
「うん、杉内さんの事だから遅くまで勉強しているんでしょ。体調を崩すといけないからね」
いつものビタミン剤だ。夜な夜な勉強をしている私に彼はいつの頃からかお香と一緒にそれを渡すようになった。優等生を演じている私は努力している所をあまり見られたくない。しかしそれが原因で肌にでも出ようものなら実に滑稽だ。努力してようやく如月に勝っているのだと思われたくない私は、芳野のその気遣いを快く受け入れている。彼は一応そのようなことまで考えているのだ。そういう意味では優秀であろう。
私と彼が話しているとドアからノックが聞えてくる。できればこのような場面を見られたくない私はどこかに隠れようと辺りを見回すが、ドアは無常にも開いてしまう。
扉の向こうには三年の小野田真央さんが居た。上級生の顔や名前なんて知らないけどこの人は少しの間噂になったから知っている。
この人は小沢先輩の彼女だ。私のクラスでも何人か彼の下駄箱に手紙を入れに行ったのを知っている。
「こんにちは小野田さん、今日はどうかしましたか?」
「いえ、今までお世話になったのでお礼をと」
「そんな律儀に、ありがとうございます」
芳野と小野田先輩は軽くやり取りをした後、私に微笑を浮かべ軽く会釈をすると部屋を退室した。
「小野田先輩もここを利用していたんですね」
何か悩みがあったのだろう。私が知っている限りではそのような人には見えなかったけれど。
「ええ、まぁそうですね。期間は短かったですけど」
先ほどのやり取りを見られて、今更隠しても無駄だと思ったのだろう、多少ばつの悪そうに芳野は頷いた。
自分に余裕が生まれたら、次は他人のことが気になるのは当然だ。しかし流石に芳野に聞いてみても何も喋らないだろうし、上級生の悩みを知ったところであまり面白くない。年上の悩みを知るということは多少の優越感を覚えるが、もう解決してしまった様子。今更嗅ぎまわるのもどうかと思い、私はとりあえず部屋を後にすることにした。
◇
七日後。私はまたカウンセリング室を尋ねるのと、良く知った人物が部屋から出てくるのは同時であった。
ドアで会釈し丁度退室する彼に道を譲ると、まるで作り物のような整った顔が私に多少疲れた顔であったが微笑みかけるのが分かった。
小沢和也先輩だ。
いきなりの対面だったせいか、それとも彼の魅力に驚いたのかはわからないが、私の胸が大きく高鳴るのを感じた。
それは私が求める感覚に似た高揚だった。落ち着かなくなる感覚とでも言えば良いのか。
「おや、杉内さん。こんにちは、どうしたの?」
私は自分の感覚に一種の疑問を持ちながらも、芳野のいつものやり取りに返事をした。
「お香が切れたので売ってもらうと」
「ああそう。ちょっと待ってね」
彼が後ろを向き戸棚を漁っているその背中に、私は何となく呟いた。
「小沢先輩、何か悩んでいたんですか?」
「んー、まぁ、そうだね。ああ、そうだ」
芳野は何か思いついたのだろう、明るい声を出して振り向く。その顔は依然として何を考えているかあまり掴めないが、お香を持っていないことから突発的に何か思いついたのだろう。
「杉内さん、勉強得意だったよね」
「はぁ。まぁそれなりに」
「うん、それでものは相談なんだけど、家庭教師してみる気ない?」
意味が分からなかった。この男は私にアルバイトでも斡旋しているのだろうか。そんなことをする暇があったら運動でもしていたほうがマシだ。まだ如月には勉強以外勝っていないのだから。
「はぁ、いきなりそう言われましても」
関係を悪化させるのは好ましくない。やんわり断ろうとした私に、一瞬だけ芳野は微笑を浮かべた、ような気がした。
「その相手って言うのはね、さっきの小沢君なんだけど」
意味が分からなかった。何で私がという言葉を放つ前に、芳野は続ける。
「小沢君ね。進学のことで悩んでたんだけど、進学するには先ず基礎知識が無いらしいんだよね。自分でも自称してたけどずっと遊んでばかりだったらしくて」
それで私に一、二年の勉強を教えて欲しいというのか。
「どうかな? 勉強する場所は夜ならここを使って良いから」
私の記憶に、あの整った顔立ちが思い起こされた。私は何故か、自分の記憶に多少の気恥ずかしさを覚えた。
「め、メリットがありません」
「うーん、だよねぇ。ああ、それじゃあ、お香を無料にするってのはどうだい? 僕もそこまでは面倒見てあげれないから丁度良い」
「それは魅力的ですけど、そういうのは担任の先生とかに――」
自分でそう言って、今が夏休みだと気付いた。
「そう、夏休みなんだよね。それに彼、朝は補習、昼は塾に通うらしいから」
それでは一日中勉強漬けだ。何がそこまで彼を駆り立てるのだろうか。気付けば私はその条件に、何故か頷いていた。
もしかしたらこれも――。
◇
持つならば高価なものが良い。持つことが出来るのであればブランド品に限る。品質が良いしお洒落であることは当たり前だとして、それを持つことにより私自身の価値が上がるのだ。持っていないものから。持ちたい者から浴びる視線は羨み程気持ちの良いものは無い。
それは無論、男であったとしても。
一、二年の教科書と参考書を開きながら、私は自分の中に沸いているその意思をはっきりと認識した。
なるほど。私は女であるというのに、男に。間男になろうとしているのかと、まるでドラマを見るかのようなごく自然に私は苦笑する。
隣ではいきなり苦笑を始めた私を不思議がりながらも、それに合わせるように微笑を浮かべ、どうしたの、と尋ねてくる男性。小沢和也先輩が居る。
夜のカウンセリング室。いつものお香の焚かれた部屋で私達は二人で勉強をしている。
はっきり言えば、彼の成績は普通であった。
最初は見るも無残な成績なのだろうと思っていたが、そのようなことは無くもしテストを行うならば、平均点を若干下回る程度の点数ならば取れるだろうという程の理解度であった。
勉強を始めて八日目。
毎日勉強漬けのローテーションを行っているのか、彼の学力は目覚しいほどに向上した。それこそ教えている私に比肩する程に。
まだ一、二年のテストで勝負するのならば勝てるだろうが、彼は朝と昼で三年の勉強もやっている。同じ調子であればそちらの方も比例して成績が向上しているだろう。
なるほど。私が惹かれるのも無理は無い。いや、恋心というものを理解していない私は、価値という側面でしか彼を見られないが、価値は十二分にあると思う。
元々の格好良さに加え、まめに相手を気遣う性格のおかげで女性受けするのだろう。確かに騒がれるのも頷いてしまう。それに今では学力も日進月歩で上がっていくのだ。価値としては申し分ない。
如月彩の傍に居るのは、日野忠明だ。
彼氏なのかは分からないが(証拠に新聞部の水瀬静香とも一緒に居ることが多い)、日野より小沢の方があらゆる面で優れているのは一目瞭然だ。
如月よりも良い相手。誰からも連れて歩いたら騒がれるような相手。
私が彼に入れ込んでしまうのは当然だった。
だから計画を練らねばならない。小野田真央という私よりも美しい女性を持つ彼を、私の物にする策を講じなければ。
夏休みが始まり十五日。まだ、時間はあるのだから。
◆
「こんばんは、芳野先生」
「こんばんは、えっと君は誰かな?」
図書室で髪の長い女性とカウンセラーの芳野は対面していた。電気は付いておらず廊下から漏れる非常口の薄い緑が遠くから部屋をおぼろげに照らすのみである。
「三年の藤野美咲。小野田真央の友人です」
「ああ、真央さんの。どうしたんだい? 相談でも?」
いつものように当たり障りの無い、表情の変わらない笑顔を芳野は作る。
「相談、そうですね、それでは少し聞かせてもらっても良いですか?」
「何かな? 僕で答えられるなら――」
「ピラセタム」
美咲の一言に芳野の顔は一瞬、一瞬だが引きつった。
「やりすぎですよ」
「何のことかな?」
「合法とは認められているわけではないと、貴方も知っているのでしょう」
普段は見せない美咲の真剣な表情。威圧感こそなかったが、彼女の言葉はゆっくりと周囲の空気を重くしていく。
黙っている芳野に美咲は続ける。
「貴方は優秀です。ですが、限度があるでしょう」
「だけど解決してやることが僕の仕事なんだけどね」
「解決の仕方に問題があると言っているのです」
美咲の言葉に、芳野は大きく溜息を吐いた。
「はぁ。で、何が言いたい? 現にアイツ等は俺に感謝しているだろう。自分の力ではどうしようもできなかった現状を打破することができたのだからな。しかも自分の力で解決したと信じている。これのどこが問題なのだい。栄養が不足しているからサプリメントを飲むのと何処が違う? 不健康で居たくない人間が飲むそれと、現状で居たくない人間が使うのとどこが違う」
「それはまやかしです。確かにきっかけにはなっているかもしれない。けれど、それは救いではない。貴方の仕事はケアでしょう。リリーブではありません」
「それこそまやかしだ!」
芳野は激昂した。表面には何も浮かばない男が、初めて表情を見せたのだ。
「君は知らないのだ。何もできないもどかしさを。何もできずに恨まれるその理不尽を。自分だけが被害者だと思っているあの傲慢さを。救いを求められても結局腐敗を先延ばしにするだけの、あの無力感を!」
男の顔は歪んでいる。この図書室が明るかったら、芳野の苦渋に満ちたその表情を美咲は見ることができただろう。
「君は知らないのだ。知らないからこそ、そのような正義を、正論を、まるで聖人のように振舞えるのだ! 人間は人間を救えない。当然だ。アイツ等は救われようとしていない! 救って欲しいと懇願しながら、奴等は救い主を受け入れないのだからな!」
激昂が図書室に響き。そして沈黙が流れた。
いつもは涼やかな図書室も冷房の入っていない今は蒸し暑い。ただ冷房の音が無いからか、余計にその沈黙は大きく二人の耳に浸透していく。一筋の汗が頬を撫ぜた。
「私は貴方より知らない。けれど、一つだけ訂正するなら――」
美咲は静香に深呼吸をする。自分の余熱を外に出すかのように静かに。
「私だって、そのもどかしさは知っているのです」
そう告げる。
「貴方の過去に何があったかは知りません。けれど、薬を使って相手の思考をコントロールするのは問題の先送りではないですか?」
「それのどこが悪い。現に今を乗り切れば見える光だってある」
「そうして目隠しをしていれば、傷つかなくて良いからですか?」
芳野はそれに沈黙した。
「そうやって高校の三年間という短い時間を乗り切ってしまえば良いのですか? 確かに軽度の方は薬で一時しのぎをすれば良いかもしれない。それこそその方が好転することだってあるでしょう。貴方の言う通り精神的なサプリメントに違いないのですから。ですが、本当に貴方に救いを求めにきた人はどうなるのですか? 薬を渡して現状を維持し続けて卒業まで先延ばしにして。それはケアなのですか? 貴方だって人を受け入れていないのでは? 救おうとしていないのでは?」
「何が言いたい。高校生の小娘が俺に何を」
怒気を孕んだ芳野の声。その声は普段の彼からは想像が付かない。
「相手に目隠しをして一時しのぎをすることは、自分にも目隠しをすることに変わりありません」
「――どういう」
「相手の症状を見ていないということです」
「――何を」
「小野田真央は貴方を頼った」
美咲は寂しそうに、そう漏らした。
月を隠していた雲が風で流れたのか、窓からは光が差してくる。そこで初めて芳野は美咲の顔に悲痛な色が浮かんでいるのが分かったのだ。
「貴方の目は目隠しによって、彼女の真意を読み取れなかった」
「小野田は俺を頼っていなかった。アレは俺に救われようとしていなかった」
「当たり前です。救おうとある意味で躍起になっている貴方には、彼女の真意なんて分かりません」
「なら何故、この俺を訪ねてくる!」
「貴方は何を勘違いしているのですか。貴方は神でも救世主でもない。カウンセラーなのですよ。何故、ただ、悩みを聞いてあげるということができないのですか。何故解決したがるのですか?」
その言葉の意味を、芳野はしばらく理解できずに居た。
「もう一度言いますよ。貴方は過去に囚われているのでしょう。自分を訪ねてくる人を、それこそ手段を選ばずに効率よく“リリーブ”しようとする。しかし、それでは本当にケアするべき人を見誤ります」
「そ、れは、小野田は救いを求めてきたわけではないと」
美咲はそれに頷いた。
芳野は小野田がどうしてろくな相談もせずに短い期間で利用を辞めてしまったのか分からなかったのだ。
「見抜かれていたのでしょうね。彼女は勘が良い子ですから。この人に相談しても意味が無いと」
「見限られて、いたのか」
「用途が違うと思ったのでしょう。まな板で野菜は切れませんから」
二人の間に再度沈黙が流れる。
「だが、僕は辞めないぞ。君の意見はきちんと取り込んだ上で今度はきちんと判別する。――もし君が俺のことを学校に告げるなら」
「そんなことはしませんわ。私は貴方に警告とお願いがあって来たのですから」
芳野はそれで、この図書室に呼び出された真意を聞いていなかった事に気付いた。
「何かな? 君にはケアもリリーブも必要ないように思えるが」
「ええ、それでは本題ですが――」
そして、芳野の呆気に取られた後に図書室には美咲一人となった。
◆
芳野との会話が終わった後、美咲はカウンターの奥の部屋で一人月を眺めていた。鋭利に尖るそれを見ていると部屋がノックされる。振り返ると忠明の姿があった。
「どうしたの? 急に呼び出して」
「ええ、ちょっとね。入って」
美咲に呼ばれて忠明は首を傾げながら部屋に入る。
「どう? 最近」
「どうって何がさ」
「彩とは上手くいってる?」
「まぁ別に上手くいかない状況が分からないし。上手くいってるよ」
忠明は苦笑しながら言うと、美咲はそれに微笑を浮かべた。
彼女の視線を辿ると咲いていない桜がある。この部屋からは校門の桜が一望できるのだ。
「人が」
「え?」
美咲の呟きが聞き取れなかった忠明は聞き返す。
「人が幸せになるにはどうすれば良いと思う?」
「え、どうすれば良いの? 夢を叶えるとか、お金持ちになるとか?」
それに美咲は苦笑した。
「人が幸せになるにはね、人でなくなれば良いのよ」
「――えっ、どういうこと」
忠明の言葉に美咲はやはり微笑で返す。
「真央はね、幸せになったのよ」
「どういう意味さ?」
先ほどの流れから行けば、彼女は人間でなくなってしまったということになる。
「人が幸せになるには、人の価値観で無くなってしまえば良い。それならば人は幸せになれるのよ」
「価値観?」
それに微笑を浮かべ頷く美咲。
「あの子はね、妊娠したの」
その美咲の言葉に、文字通りに忠明は言葉を失った。
「学生から母親になった。価値観が私たちとは変わってしまった。けれど幸せらしいわ。子供が出来る。生みたいという感情は、学生の私にはわからないけれど。母になるという事はそういうことなのでしょうね。母親に生まれ変わるというのかしら」
「小野田さん、学校は辞めるの?」
「そうみたいね」
「父親は誰なの?」
「小沢君。だから彼も変わった。ううん、変わろうとしている」
「そうなんだ」
自分には遠い話だと忠明は思った。価値観が遠すぎるとでも言うのだろうか。
その話題は終りだとでも言うかのように、彼女は改めて外を眺める。
「今日も暑いわね」
「夏だからね。でも、そろそろ夏祭りがあるよ」
「あら、そうだったわね、皆で行きましょう?」
「そうだね。きっとみんなで行ったら幸せだよ」
先ほどの内容に反論するつもりなのか、忠明はそう言うと美咲は苦笑した。
「そうね。忠明君なら、もしかして――」
そう言い掛けた言葉は突然鳴き出した蝉の求愛にかき消される。
「夏ね」
「うん」
「忠明君、今幸せ?」
「え、うーん、そうだね、幸せかな。夏休みだし、皆と一緒に遊べるし」
忠明の言葉に、美咲は静香に微笑を浮かべた。
その笑みに何が含まれていたのかは、忠明には分からなかった。