日計高校秘密倶楽部

更級 楓

 

第一話【マスカレイド・エフェクト】

 

曇りガラスで仕切られた部屋に変声機(ボイスチェンジャー)の機械的な音が鳴り響いている。

「こ、こんにちは」

その耳障りな機械音はぎこちなく喋る。まあ無理もない。ここはテレビなどで見るお悩み相談をする場所ではない。れっきとした高等学校だ。だというのにお互いに姿が見えないようにガラスで仕切られ、声で特定されないように変声機まで用意されているのだ。緊張してしまうのは無理も無い。

「こんにちは。どのようなお悩みがあるのですか?」

どこか気品を感じさせる口調で、機械の声に返答するのは紛れもなく女性の肉声だ。その声はガラスの方から聞えてくる。

つまりこの構図は女性と機械声の主は曇りガラス越しに会話しており、当然ながら女性が相手の相談を聞いているという構図であることに間違いない。

ここは日計高校の部室棟。この部屋の外にあるルームプレートには偉く達者な文字で【秘密倶楽部】と書かれている。

秘密倶楽部の活動内容は単純(シンプル)だ。このように曇りガラス越しに相手を特定できない状態で悩みを聞き。出来る限りそれを解決するというもの。

また丁重に相手のプライバシーを守るという姿勢(スタンス)から人には言えないようなことを告白される、いわば懺悔室のような役割も兼ねていた。

悩み多き高校時代。部活や恋。無論のこと将来のことで沢山の不安を溜め込む多感な時期。悩みとは切っても切れぬ年齢の集合体(コミュニティ)であるが故にこの秘密倶楽部の扉を叩くものは多い。

今日も今日とて秘密倶楽部のドアには【使用中】と書かれた札が提げられているのであった。

 

 

 

「好きな人が居まして」

恋愛についての相談事が秘密倶楽部で一番多い相談である。

今月に入って既に三件目だ。軽く溜息を吐きそうになる自分を確認して、如月(きさらぎ) (あや)は慌ててそれをかみ殺した。

そんな態度を取ろうものなら相手を傷つけてしまうことは明白だ。

「どんな方なのですか?」

彩は静かに尋ねる。それに一拍置いて、機械音はどこか震えるように喋り始める。

「あ、先輩です。一つ上の三年生。サッカー部の上田(うえだ) 利一(としかず)先輩です」

名前を聞いても彩はその名前の主を特定することができなかった。

「それで、えっと――どうお呼びすればよろしいですか?」

「あ、カオルでお願いします」

カオル。同じ二年でカオルという同性を、彩はやはり特定することができなかった。この秘密倶楽部の特性上、どうしても正体を明かしたくないという人が居る。そのために依頼者は偽名を名乗っても良いという事になっている。秘密倶楽部に相談する場合の基本原則にも記載していることだ。

「はい。カオルさんですね。それで、上田さんとどうなりたいのですか?」

彩の問いに、カオルは何かを考えているようだった。耳を澄ませば聞えてくる息遣いから、口に出すのをどこか躊躇っているようにも聞えた。

顔が見えない場合人は次第に饒舌になる。これは彩が経験から学んだことだった。無論逆の場合もある。悩みに対してどれだけの明度を持っているかの差だろうと彼女は考えている。

彩は手持ち無沙汰から音を立てずに窓にぶつかる桜の花びらを眺めていると、ようやく小さな音がガラスの向こうから聞えてきた。機械的な声は実に人間らしい調子で喋り始める。

「できれば。できれば、お付き合いをしたいです。でも、私は先輩とは違ってぶさいくだし、性格も先輩と違って内向的だし――自信が無いんです。だけど気持ちだけは収まらなくて、それで、こうして」

まるでそれが許されないことかのように。自分には過ぎたことであるかのようにカオルは自分の意思を告白した。

「そうですか。告白は――」

「む、無理です! ここに来たのだって心臓が破裂してしまいそうでしたし! 告白だなんて、死んでしまうかもしれません!」

「ですが、告白しなければ想いは伝わりませんよ?」

「それができたら――ここには来ていません」

その通りだと彩は苦笑しそうになった。ここは悩みを相談し、打ち明ける場所なのだから。

そしてこの秘密倶楽部の部長は自分なのだ。自分がしっかり対応してあげなければこの部の存在理由は無いわけだし、何よりカオルさんに失礼だと、彩は一度だけ深呼吸をした。

「なるほど。告白する勇気はない。けれどお付き合いはしたいということですね?」

はい。と機械音は弱弱しく返事をした。

 

 

 

「にしても、都合の良い話だよね」

相談側には誰も居なくなり、いの一番に男性は苦笑する。秘密倶楽部では部室に誰が居ても相談者の対応は彩一人ですることになっている。現在部屋には彩と苦笑し続ける男性の二人だ。

彼の名前は日野(ひの) (ただ)(あき)。秘密倶楽部の部員の一人で彩の幼馴染の一人である。

「苦労せずに結果だけ欲しいなんて、甘えにも程があるよ」

「忠明君、口が過ぎます。それにこのような悩みを聞くのが秘密倶楽部でしょう?」

「まあ、聞くだけなら構わないけど、彩はどうするつもりなの?」

忠明のどこか挑戦的な口調に彩は、そうですね、と長く伸びた金の髪を揺らし、年相応に実った二つの胸に右手を置きながら思案を始めた。何か考える際の彼女の癖だ。

「そうですね。忠明君はつり橋効果というものをご存知ですか?」

目を閉じながら彩は問いかける。

「えっと、良くテレビで見るやつだよね。つり橋の上で告白すると成功しやすいってやつ。どんな状況だよっては思うけど」

そう忠明は苦笑すると彩はそれに頷いた。

「正確にはつり橋の上で無くとも良いのです。要はつり橋という不安定な場所から生じる心拍数の上昇、つまり興奮を利用して自分が恋しているのではないだろうかと錯覚させてしまうことですから。興奮するような状況におくことが出来ればつり橋でなくとも構いません」

「ん? それはつまり、何をする気なの?」

少し不安気に聞く忠明に、彩は相談内容と連絡先の書かれた紙を手元に取りながら、そうですね、微笑んだ。

「少し大掛かりなことになりそうですから、協力してくださいね?」

忠明は面倒なことが起きそうだと静かに観念した。

 

 

 

上田利一は戦慄した。

それは自身の視界があまりにも狭まっていたからだ。

混乱するは急いで状況を確認する。小さく開いた無数の穴から周囲を見渡し、小さな穴の外には白い布が見える。

上田利一はそこでようやく、自分は布を被らされているのだと認識した。

そして彼は次第に不快感を覚え始めてきた。空気穴のようなものは大量にあるし、そもそも布と言っても麻で作られているのだ。さほど息苦しさは覚えない。ただ、自分の吐く息が布中に蔓延し、徐々に頭だけ湿度に晒されるのは不快でしかなかった。

利一はとりあえず被っている袋をどうにかしようと、手を伸ばしてみるがどうも上手くいかない。脱ごうにも後方に小さな南京錠が付いており、脱ぐことは不可能であるかのように思えた。それならと力任せに切り裂こうにもやはり上手くいかなかった。手で引きちぎることが可能であれば袋としての役割は無いに等しいのだ。それも仕方の無いことだと言える。

彼は次第に自分が虫かごの中に入れられている虫のような気分になり、怒りと遣る瀬無さの同居するなんとも落ち着かない感覚に陥った。

故に彼はできるだけ冷静に努めることにした。自分は仮にも部活動では後輩を纏め上げ、同学年では信頼されているキャプテンという立場なのだ。このくらいのことで音を上げていたら彼らに示しが付かないし、何より今年の都大会でも良い結果は残せないと自分を鼓舞した。無論、現在の状況はサッカーとはまるで関係ないのだが。

利一はまず、自分の置かれている状況を改めて確認することにした。

呼吸をするたびに少し上下する袋をできるだけ無視しながら周囲を見渡す。

どうやらここは彼の通っている日計高校の教室のようだ。それを知りまるで異次元に飛ばされたかのような感覚に陥っていた利一はひとまず安堵した。後はこの邪魔な袋をどうにかして、敷地内に併設された寮に戻るだけだ。

机の配置や黒板。黒板から見て後ろに設置された戸棚を見るに、ここは利一のクラスに間違いないようだ。現に自分の机があった。理解の出来ない状況で、自分の机にどこか頼もしさを感じた彼は自分の机に向かって歩いていく。

そこで彼は自分の机の上に封筒が載っているのを発見した。

急いでそれを開く利一。そこにはワープロ文字で書かれた簡素な手紙が入っていた。

 

 

拝啓、上田利一様。

いきなりこのような状況に陥り、混乱されているかと思います。先ずはそれをお詫びします。

さてこのような状況になった背景を申し上げますと、ご学友の方々が最後の都大会に向けて精魂を込めて部活動に尽力する貴方様を見て、骨休めが必要ではないかという依頼を、私ども秘密倶楽部に依頼なさいました。

そこで、このようなサプライズを提案した次第であります。

憤慨なさるかもしれませんが、全ては貴方を想ってのこと。どうかお叱りなきようお願いいたします。

それでは先ず、隣の三年二組の教室に向かってください。そこに貴方と同じような状況に置かれている方がいらっしゃいます。一緒に尽力し、この学校から抜け出されることを願います(つまりそのような遊びなのです)。

敬具

 

 

穴の位置のせいで、文字を読むことに少し手間取りはしたが、利一は手紙を読み終わった瞬間に脱力感を覚えた。

大きく吐いた溜息は袋の中を回り、少しばかり湿度が上がる。だが彼にはそれすら愉快なことであるかのように思えてきた。

これは悪意から来る状況ではない。むしろ自分の人徳が招いた結果なのだと利一は誰にも見せるでもない笑みを浮かべた。

自分は信頼されているのだ。厳しく接したりもしているが、全て相手に正しく伝わっていたのだ。そのことが利一の心持を幾分にも軽くしている。故にこのような状況を素直に楽しもうという姿勢が、ようやく彼に芽生えたのだった。

そして何より彼のモチベーションを高めているのは秘密倶楽部という部活動がこの状況に絡んでいるということだ。

あの手紙の古臭い言い回しから察するに、アレを書いたのは如月彩であることは間違いないだろう。

大企業のお嬢様であり、才色兼備を地で行く後輩が入ってきたと去年から噂が立っていたのだ。

どういう形であれ、その彼女と関われるのは利一にとって僥倖であった。あの金に流れる長い髪と儚げに微笑むその姿は、彼にとっても印象的であったから。一言で美しいと言える女性を利一はアイドルなどを除いて彼女しか知らない。

それにもしかしたら、隣のクラスに居るのは彼女なのかもしれないという淡い期待を抱いてしまうのは仕方ないことだろう。あわよくば仲を深めることが出来るかもしれないと思ってしまうことも。

そんな様子で彼は隣のクラスまで軽い足取りでたどり着き、大きな音を立てながらスライドする木製のドアを開ける。夜の校舎にはそれが響き、利一の肝を冷やした。

教室に入って一番に飛び込んできたのは黒板にでかでかと書かれている文字であった。

そこには白い文字でルールと書かれていた。

 

一つ。互いに名乗る事なかれ。

一つ。校舎を脱出する際には二人一組でなくてはならない。

一つ。校舎を出る場所は二年側の出入り口のみである。

一つ。出入り口には四桁の数字で開錠できる鍵が掛かっている。

一つ。最初の数字は理科室に隠されている。

 

なるほど。と利一は思った。要は肝試しなわけだ。

お化けたちをサッカー部の部員で行うのだろう。合宿などのレクリエーションなどで行う遊びを学校でやるというわけだ。

とりあえず利一は教室内を探す。目的の人物はすぐに見つかった。自分と同じように眠っていたのだ。

そう。同じように頭をマスクで覆われた状態で。

とりあえず起こさないことには始まらない。

そう、始まらないのだが、どう声を掛けて良いものやら利一は判断に困った。身体を揺すっても良いのだが、やはりそれは躊躇われた。

きっと女子の制服を着ているからだろう。迂闊に触れようものなら誤解を受けるかもしれない。

結局利一は、すいません、あの起きてください、などと連呼することにした。

しばらくして相手が目覚め、黒板を見せて状況を確認させることに勤めた利一は、相手の相槌を聞いて驚愕した。

相手の声はまるで人間のそれでは無かったからだ。

どうやら変声機を袋の中に仕込まれているようだった。なるほど、声で特定されない為なのだろう。

どこか不安そうな仕草をする女性を見て、利一は急に立ち上がると彼女に手を差し伸べた。誰かは判らないけれど女性を不安にさせるのは男が廃ると考えたのだ。

差し伸べられた手に、女性は躊躇いがちに手を伸ばす。

無論このようなことをしなくても良いのだろうが、利一は言うならばロマンティックな男であると自負している。常に格好の良い姿勢(スタイル)を追求しているのだ。現にサッカーですら最初は格好良いからという動機で始めたくらいだ。格好良い自分を演出するのが利一の趣味であり、現にそれは多くの女性から支持されていた。

そして二人は立ち上がると教室を出て行く。

お互いにマスクを被っているという不可思議な状況ではあったが、利一は力強い歩みを見せた。

そう。格好こそ不恰好であるがこの状況(シチュエーション)に勝る状況を、彼はこれまでの人生で体験したことなかったのである。

 

 

 

最初の理科室では無駄にホルマリンや人体模型が並べられている中、利一は常に相手を気遣い、突然大きな物音がした際には驚く彼女を抱きとめたりもした。

首尾よく数字を手に入れた二人は指示通りに音楽室にやはり手を繋ぎ向かった。

音楽室では勝手に鳴るピアノ(中にラジカセが入っていた)に脅えている彼女を後ろ手に引きながら男らしく辺りを捜索し、見事にベートーベンの肖像画の裏からはみ出ている手紙から数字と次の指令を手に入れた。

その瞬間にピアノの音が消え木魚の音に変わった事に、二人は驚きこそしたが少々間抜けに聞えたのだろう、マスク越し、変声機越しではあったが笑いあった。

次の指令はトイレであった。確実に何かあるとわかっているだけに、二人の緊張は計り知れないものがある。利一はなるべく冷静を装っているも繋がれた手は汗で濡れていた。

場所が女子トイレということもあってか、利一は誰も見ていないとはいえ、できれば入りたくないという意思を告げたが、相手は絶対に一人では入りたくないと断固として譲らなかった為、結局二人で入ることにした。

紫色の蛍光灯に照らされたトイレはそれだけで不気味で、白い煙のようなものまでトイレから流れていた。

そして二人が進むにつれて、しょりしょり、と変な音が聞えるのが判った。それはどうもトイレの個室の様子。他は全て使用中になっているため、二人は頷き合いながら確実に何かあると判っていながらも開けてみると、まるで老人のようにメイクされた小汚い男が、便座に座りながら桶で小豆を洗っていた。

端から見ればマスクを被った男女と小豆を洗う小汚い男がトイレの個室で対面しあうという実にシュールな光景だ。当事者達もそう思っているのか、ただ悪戯に時間だけが過ぎていく。

そのある意味睨めっこにも近い状況は、小豆を洗う男が無言で手紙を差し出してきたことで終焉を迎える。

利一はそれを受け取ると、トイレの個室を静かに閉める。扉にはすぐさま錠が掛けられ静かに泣き声が聞え始めた。

利一達にはそれがどこまで演技か判らなかったが、ひとまずトイレを後にすることになった。

校舎から脱出するためには四つの数字が必要になるらしい。手元にある手紙に書いてある数字は三つ。次で最後になる。

最後は図書館が指定されていた。

図書館は校舎とは切り離されて作られている。向かうには一階と二階にそれぞれある渡り廊下を使わないといけない。

ただ、一階側の方はここからの脱出を恐れてか外から錠が掛けられていた。無論、利一もそこまで無粋な人間ではない。その気になれば一階の教室の窓から普通に出入りできるのだが、それではこのような機会を設けてくれた後輩や同級生に申し訳が立たない。

二人はやはり手を繋ぎながら二階の渡り廊下へと向かった。

扉に手を掛けると涼やかな風が二人を包む。先ほどまで室内だったのと、ずっと顔にマスクをつけているためその風はとても心地よく感じる。

二人はしばらく休憩することにした。先ほどから真っ直ぐに目的地へと向かい続けたのだ。不慣れなことをし続けているためどこか精神的にも参っている。

二人は実にようやくだが、手を繋ぐという行為に気恥ずかしさを覚えたのか、静かに手を離す。汗ばんだ手が風に晒されたことに利一は心地よさを感じていると、視界の端が明るくなったのを感じた。

マスクをつけていなければすぐにその正体は知れただろうが、いちいち首を動かし視界を正面にずらさないといけないことに改めて不便さを感じながらも、利一は校門の正面に植えてある桜の木が照明で照らされていることに気づいた。

桜は丁度散り時なのだろう。風が吹くたびに花びらをその風に舞わせている。そのいくつかが二人の間を流れていく。まるで見えない川が二人の間を流れているかのように。優雅にそれは流れていく。

「綺麗、ですね」

この利一すら息を呑んだ光景に、異質な機械音が流れる。

「え?」

「桜、本当に綺麗」

鸚鵡返しするのも芸がないと利一は思った。今こそ格好を付けられるチャンスであると。だが、それこそ無粋な気もした。

泥臭く、無学である自分がこの空間を壊すことこそ、格好の悪いことであると感じたのだ。

この雰囲気を共有することこそ、真の意味で格好の良いことのように思った利一は、静かに頷いた。

「本当だ。――本当に綺麗だ」

自分の発言とこの状況。利一は静かに雰囲気に陶酔していく。

自分が静かに興奮しているのが解る。相反する状態が自分の中で入り混じり、利一は落ち着かない心持を必死に押さえ込む。

それは彼が体験したどのようなことよりも、今がロマンティックな状況だからだ。

顔も名前も文字通り知らない男女が、一つの桜を眺める。

端から見れば奇怪でしかなかろう。でも彼はその状況をとても美しいと感じていた。

だからこそ、だからこそだ。

顔も名前も知らぬが故だ。知っていたらこのようなこと絶対にしない。神秘性があるが故に。秘匿性があるが故に。彼はこの状況が美しいと思うが故に。自分の格好良いと思う状況を共有したが故に。

彼は相手と親密になりたいと思ったのだ。

外見が見えないこの状況において、相手の内面のみしか見えない現状は、相手のことを打算抜きで知れるということ。外見に惑わされた関係でなく。馬鹿げた喩えであるが、相手の本質のみで付き合っているようなものだ。

そして相手はまったく知れない相手ではあるが、自分のことを頼ってくれているように思える。自分だって相手からすれば素性が知れない人間なのだ。だというのに相手は自分の事を信頼してくれている。そしてこの状況。同じ感性を持ち、同じものを美しいと語った相手。だからこそ利一は相手のことを美しいと思ったのだ。

利一はマスクを取った後、どのような相手が来ても対面する女性のことを好いて居られるだろうと感じた。でなければ自分は最高に格好悪い人間である。それは結局人を外見で選んでいるということに他ならないのだから。

そして利一は、この状況に相応しい言葉を選び出し、口にした。

 

 

 

月に照らされながら、如月彩と日野忠昭は校門近くにあるベンチに座り人口の太陽で映える桜を眺めていた。

風が吹くたびに自身を零していく桜。まるで風が涙を拭うかのようだ。

「もうあんな役は金輪際やらないからね」

「ふふ。まるで本物と見紛うばかりでしたのに、残念です」

そう言いながら彩は苦笑した。忠昭が断言しているのは彼が小豆洗いという妖怪に扮し、トイレに潜んでいたことである。利一達とトイレで出会ったのは小汚い男は忠昭であった。

「ちっとも嬉しくないし、それに本物ってまるで見たことあるかのように言わないでよ」

彼の言葉に、やはり苦笑しながら彩は、はい、と答えた。

それから二人は無言で散り続ける桜を眺めていた。寮の消灯時間まではまだ少しばかり猶予がある。

「――今日は十六夜ですね」

彩は空を見上げながら呟いた。それに習うように忠昭も月を見上げる。

「十六夜には、躊躇う、躊躇するという意味があります」

陰暦十六日の月の出は、十五日よりも幾ばくか遅いため、月が躊躇っているように見えるので、十六夜月というのだと彩は説明する。

「この月のように、上田利一さんも、躊躇っているように見受けられましたね」

隠れながら彩と忠昭は、利一達が校舎から出てくるのを見ていた。秘密倶楽部が提案したのだから、最後まで依頼の内容がどうなったか見届ける責任があるからだ。ただ、恋愛というデリケートな問題なため、最後まで姿を現すのは良くないと彩が提案したのである。

忠昭は彩の言葉に、あー、と漏らしながら。

 

「そりゃあ仕方ないよ。カオルさんは、男性だったんだもん」

 

と苦虫を噛み潰すように答えた。

マスクを付けた状態での肝試しが成功したのだろう。二人が校舎から出てくる頃には親密になっていた。

そして校舎から脱出し、最後の手紙の中に入っている二つの鍵で互いの南京錠外した二人。利一は相当にマスクが嫌だったのだろう、すぐにそれを脱いでしまう。

そして、マスクを脱ぐのを躊躇っているかのように振舞うカオルに、大丈夫、だとか、恥ずかしくない、等と説得しながらそれを脱がすと、文字通りに利一は硬直してしまった。

そして硬直している利一に、カオルは声を振り絞りながら。

「君がどんな子でもきっと好きになれるって、言ってくれたこと信じていますので!」

そういって走り去ってしまったのだった。

忠昭は隠れながらカオルの姿を確認し納得した。

彼女、いや。彼の名前は梅原(うめはら) (かおる)。確か利一と同じサッカー部の二年生だったと。

「カオルさんは自信がないと仰ってましたね」

「そりゃあ、自信ないだろうね。容姿以前に同性だもん」

悪いと思いながらも忠昭は苦笑してしまう。これから利一はどうするのだろうかと考えるとどうしても笑いがこみ上げてくる。

そんな忠昭とは対照的に、彩は依然と月を眺めていた。

「河童はですね」

「え?」

いきなり話が飛んで、忠昭は彩に視線を戻す。

彼女はどこか儚げに空を眺めていた。

「河童は、生まれてくる前に選ぶのだそうです」

「何を?」

「本当にこの世に生まれてきたいのかどうかを」

「赤ん坊なのに選べるの?」

「はい。ですからきっと河童の子供は泣かないのでしょうね」

「どうして?」

彩はその答えを言わず、月から視線を戻し忠昭に微笑みかけた。

「カオルさんにもしその権限があったのなら、生まれてきたかったのでしょうか?」

「どうだろう。解らないよ。そもそも彩の思っているような、性同一性なんちゃらじゃないのかもしれないし」

「そう、ですね」

忠昭の言葉に彩はもう一度だけ微笑むと、ゆっくりと立ち上がる。

「桜の季節も終りですね」

「そうだね。完全に散っちゃう前に、みんなでお花見でもしよっか」

「ええ、そうですね。カオルさん達も誘ってみましょう」

「来るかどうか判らないけどね」

そう忠昭達は笑いあった。

十六夜の下、涙の川に金の糸が入り混じる。

まるで空を刺繍しているかのようだと日野忠昭は、ぼうと眺めた。