/結【白鳥座の奴隷】

 

正志の起こした大捕り物(本人談)から一ヶ月。腕折り魔も居なくなり、いつも通りな日々が徐々に戻ってきた。

周囲から警備員が居なくなるのと同時に、この学園の風物詩である学園祭の準備が始まる。

この学園祭。クラス毎の出し物とかは無く、基本的に部活対抗で行われる。普段は目立たない文化部が活躍するのがこの文化祭なのだ。

俺たち探偵部は昨年に大いに怒られた館建造を捨てきれず、部室をそれっぽく改装するという手段を使うと正志が宣言しやがったせいで、毎日探偵部とは思えないようなノコギリや釘などを使う音が響く。

俺達は正志を中心に、彼が部費も無いというのにどこから仕入れてくるか謎な木材やらを切ったり張ったりしながら、過ごしていた。

あの事件解決を境に、また正志が探偵部に顔を出すようになり、元のようには戻らないのではないだろうかという杞憂を文字通り吹き飛ばしてくれた。

「ふー、こんなもんかな?」

さっきから夏木さんの指示で金槌を振るっていた久那。彼女は意味不明なペースで骨折を治していた。まあ、文字通り完治ではないので、まだサッカーはできないけどあまり乱暴に扱わなければ普段の日常生活に支障はないらしい。確かに一週間後だとはいえ、ほぼ同時期に骨折した夏木さんはまだギブスをしている所を見ると何か感慨深いものがある。人間その気になれば真面目に光合成できるのやもしらん。

「先輩、(ざつ)かです。釘曲げすぎです」

「うーん、どうしてもねえ。一発目を豪快に行きたいじゃん? やっぱ」

「そうですかねぇ?」

「そうだって、あゆみん。やっぱり最初が肝心なのよ何事も」

「ごもっともとですけど、やっけん最初は慎重に行った方が良か気がしますけど」

そんな風に久那とあゆみちゃんは、二人で楽しそうに会話している。

近くでは、どこで調達してきたのか設計図らしき物を片手に、正志が夏木さんと打ち合わせをしている。今回は部室の中に三つの小部屋を作り、その中にそれぞれある謎を解いてもらうという、趣旨らしい。初級、中級、上級と三つ分かれた部屋はそれぞれ別の謎があり、それを当てることができれば商品ゲットといった感じだ。

当日に学校側から発行される券を買い、支払うことで体験できるようになっている。

ちなみに、この獲得した券の枚数に応じて来年の部費が増減するので、何処の文化部も必死だ。

「さて、どうする夏木」

「そうですねえ。折角三つあるのですから、それぞれ関連を持たせたいですね」

「黒死、ドグラ、虚無で行くか?」

「無理だと思います、部屋の大きさ本当に二畳も無いじゃないですか」

「それじゃあ、どうする? 館もので攻めるか?」

「個人的には、ポー、カー、クイーン辺りのネタを流用しておけば、とりあえずばれない気がしますけどね。それか文化祭の出し物なのですし、学園物辺りで攻めてみるのも良いかもしれません」

「となると、東野――」

真面目に止めてほしいメタな発言をしまくる二人。もうページ数も少ないし、いっそ割り切ってみるのも良いかもしれない。そもそも伏せてないし。

俺は習字紙を張り合わせて横断幕を作りながらこの探偵部を見渡す。

本当に元通りになったんだな。なんて、少し感傷に浸ってみたり。

あの事件のせいでみんなバラバラになって。そして、正志があの事件を終わらせたことで、また一つになった。

今となっては、本当にバラバラだったのかと怪しくなるくらいだ。

「よし、今日はこの辺だな。昼部活を終わるぞー」

正志が今日の作業終了を告げる。

「ふー、おつかれー。残りは夜だね」

夜に横断幕に文字を書ければ良いか。何を書くかは聞かされていないけど。

「いや、夜部活は無しだ!」

珍しい。正志がそんなことを言うだなんて。

「何かあるの? 正志」

「ふふふ、見て驚け〜? じゃじゃじゃーん!」

正志が部室の隅から取り出したのは、木工ボンドやらに隠された大量の花火だった。

「季節が外れて安くなっててな。事件解決の祝賀をやってなかった事に気付いたんで、今日の夜はこれで遊ぶぜ〜!」

正志のその言葉に、久那とあゆみちゃんは、きゃっほーい! と一気にテンションが上がったようだ。夏木さんも見れば楽しそうにしている。こういうノリが戻ってきて本当に良かったとしみじみしてしまう。

そんなわけで、俺達は学食に向かうことにした。

 

 

 

正志達が部室を出て行くと同時に、部室に翔吾が尋ねてきた。

「先に行ってて」

「なんだ優司。忘れものか?」

「そんなとこ。すぐに追いつくから、席取っててよ。できれば俺Bが良いな」

「おーけー。すぐ来いよ」

正志は振り返ることをせずに手を振るのを見送って、俺は部室を振り返った。

「どうしたの翔吾。随分久しぶりだけど」

「本当だな。まあ、挨拶は良いさ」

まったく、いつもながらに性急な奴だ。ただ、こういう所もまた決まっていて格好良いと思ってしまうんだけど。

「お前、あの事件は本当に幕だと思っているのか?」

あの事件とは、一ヶ月前の腕折り魔が絡んだ、連続腕折り事件のことなのだろう。

「幕も何ももう、何もかも元通りじゃん。後は久那達二人の腕が完全に治ればそれで幕だよ」

「お前はそれで良いのか?」

「良いのかも何も――」

「お前は気付いているんだろう? この事件の全貌に」

「全貌も何も、森下さんのお母さん。陽子さんが勘違いで――」

「それは表面的なことだろう」

挑発的な翔吾。コイツは何が何でも、俺に言わせたいみたいだ。でも。

「表面的も何も。別に事件を蒸し返すことないじゃないか。俺はこの環境さえ元通りに存続していくならそれで良いよ」

「謎を暴きたいと思わないのか? 全てを悟った優越に浸り続けたいのか?」

「そんなんじゃないって。終わったことで騒ぐのも馬鹿らしいだろ」

「お前がそれで良いならそれでも良い。ただ、これだけは確認させてくれ。お前はこの事件の。暗幕の裏を覗いているんだろ?」

溜息を吐く。自分の事ながらどうしてこうもクールに振舞えないのだろう。

「そうだよ。俺はあの事件の裏を知っている。そしてそれはきっと探偵部のみんなも気付いているんだ。でも、これ以上何かが起きる状況。被害者が出るような状況じゃなくなったから、誰も言及してないだけなんだ」

突然、携帯電話が着信を知らせる。探偵部の誰かがあまりの遅さに電話をしたのかもしれないと思ったが、番号は知らない人からのもの。

とりあえず出てみることにした。

「もしもし、玖類ですが」

『もしもし、森下です』

噂をすれば何とやらだ。にしても、誰が俺の番号を教えたのだろうか?

『今よろしいですか?』

「まあ、長くならなければ」

『そうですか。では長くなりそうですので改めた方が良いかもしれませんね。今日の夜、お会いすることはできますか?』

夜はさっき正志達が花火をするって言ってたな。ま、長引かなければ大丈夫だろう。

「ええ、それじゃあ、夜に」

『はい。それではそちらにお伺いします』

そういうと彼女は電話を切る。まったく、本当にあの人と俺は相性が悪いみたいだ。何もこんな日に電話を掛けてこなくても良いのに。

嫌なことはさっさと終わらせて、早く花火に参加することにしよう。

「夜に森下と会うのか?」

「そうなったみたいだね。早く終わらせて花火をすることにするよ」

「そうだな。でも、お前は本当に森下の事苦手なのか?」

「分かってるでしょ?」

「分かってるからこそ聞いているんだ。俺が聞いているんだぞ(、、、、、、、、、、)?」

それは、そういうことなのか。

「もうそろそろ行かないと、正志の奴が怒って呼びに来るぞ」

そうだね。それじゃあ行かないと。

「ああ、行ってこい」

翔吾に見送られて、俺は探偵部を後にした。

 

 

 

夜になる。学食で少し用事があるからと先に花火をやっていてもらうように言って、俺は食後に探偵部の部室で森下さんを待つことになった。

誰も居ない部室はなんだか物寂しく、俺はなんとなく最小限の電気だけを付けて珈琲を飲む。

なんとなく圧迫感を感じるのは、部屋の半分が既に木材で仕切られているからだろうか。それとも光源が少ないからか。

変な話だが、人が居た方がこの部室は広く感じられる。俺の精神状態がそう思わせているだけなのだろうか。恥ずかしい話、不安なのかもしれない。

ぼう、と珈琲を飲みながら外を眺める。二階にある部室と同じ高さの葉の落ちてしまった木を眺めながら、落ち葉と枝がぶつかり合う音に耳を傾ける。

結構風が強いみたいだけど、外のみんなは花火なんかして大丈夫なんだろうか?

秋の音を聞きながら珈琲を飲んでいると、扉をノックする音。

「どうぞ。開いてますよ」

やけに俺の声が響いて自分で驚いた。

「失礼します」

そう言って、森下さんが入ってきた。基本、夜部活はみんな私服になるものなんだけど、彼女の私服姿は何だか意外だった。見慣れていないからしょうがないだろう。

彼女は首元に余裕があるオフタートルネックを着ていた。その姿が妙に落ち着いていて様になっているからか、まるで洋服の量販店のCMか何かに出ていてもおかしくないくらいだ。まあ、彼女がそのように踊ったり跳ねたりするのは想像できないけど。

「久しぶりです」

「はい。お久しぶりです」

あれから彼女は色々忙しかったらしく、あまり会うことが無かった。俺としては願ったりだったけど。

「どうですか? 最近は」

「ええ。母との距離が近づいた気がします。これも探偵部の皆様のおかげですね」

そう。彼女の母親、森下陽子さんは正志の一存で警察にお世話になることなく、今も彼女と一緒に暮らしている。

もちろん、探偵部を除く被害者の三人にもきちんと事情を話しつつ、口止めした上で合意してもらった。あくまでも社会の仕組みに従おうとした陽子さんは警察に自首したのだが、被害者が全員この怪我は自分で負傷したのだと言い張り、更には久那が意味不明な速度で腕を治した為に、最初に骨折した人間よりも早く治ったことから陽子さんが供述した順番が明らかに違うだろうという結果にまとまり、(それに加えて正志が全員と折られた順番について口裏あわせをしていたらしい)結果陽子さんが捕まることは無くなった。

「それで、今日呼び出したのはどういう?」

隣に来た彼女に珈琲を勧めながら尋ねる。

「ええ。少し面白いことが分かったもので」

彼女はそれを受け取りながら窓の向こうを眺める。

「あら、花火、ですね」

振り向けば、窓の向こうには季節外れの花火が風に舞っていた。

「ああ、正志が今日は花火をやるんだって張り切ってましたからね」

「そのような日に、良かったのですか?」

「ええ。早く終わらせれば大丈夫だと思いますので」

「ふふ、最初から早く終わるように工作しておくだなんて、傷つきます」

まあ、その通りだけど。そして彼らが俺に見せたいのか、早く来いということをアピールしているのかは別として、部室から見える焼却炉付近で花火をしてくれることは俺に有利に働くだろう。

俺達はしばらく無言で珈琲を飲みながら、外で楽しそうに花火をしている正志達を眺める。両手に花火を持って回るなんて、お前いくつだよ、なんて内心毒づきながら。

「それで、面白いこととは?」

「ふふ、性急ですね。もう少し情緒を感じてもよろしいのでは?」

「生憎そのようなものに敏感じゃないもので」

「それにしても、このようなやり取りをして確信が持てました」

「どういうことです?」

「ええ。私調べてみたのですよ」

何を調べたというのだ。そして、それが面白いことなのだろうか。

「何を調べたんです?」

 

 

「この学校に、三瀬翔吾なんて学生徒は居ないということです」

 

 

体が軋むような音がした。

「最初この探偵部に依頼しに行くとき、私は物語に登場する三瀬翔吾さんに依頼をするつもりでしたの。結果、同じ事を僧正さんがしてくださりましたけどね」

そうだったな。そういえばこの人は最初、翔吾を尋ねてきたんだっけ。

「結局無事に母を止めることができたのですけど、やはりしこりのようなものが残りまして。三瀬さんだったらもう少し早く解決できたのではないか、と。そして会って話してみようと思ったのです」

そうして、気付いたのか。

「そうしたら、この学年、学園、大学の方にも、三瀬翔吾なんて生徒どこにも居ませんでしたわ」

どこが面白いんだろう。逆に気持ちが悪い。

「そして気付いたのです。三瀬翔吾とは、探偵部が作った架空の名探偵なのだと」

自信あり気に答える森下。何処が面白いのだろうか?

「どうですか? 私の推理、当たっています?」

俺でなければ良かったのに。事実確認をするだけなら、俺じゃなくても良かったはずなのに。

何故よりによって俺なのだろう。俺はそれを答えることが出来ないのに。

「それは――」

「それともモデルが居ますの? やはり僧正さんですか? それとも全員を足したのかしら?」

「その推理は――」

「貴方が作家ですからね。貴方が一番、彼を知っていると思ったのです」

何を勝ち誇っているのだろう、この人は。

「森下さん。その推理は間違っていますよ。残念ながら」

まるで狐に摘まれたかのように、森下は小さく疑問符を吐き出した。

「と、ということは、この学校に通っていらっしゃらない。別の方がモデルなのですね? ご友人、ご家族。もしくはもっと有名な人ですか?」

「そうじゃないんです。三瀬翔吾はちゃんと、ここの学生です」

「でも、そのような学生!」

何を言っているのだろう? 翔吾は。

 

「翔吾はそこに居ますよ」

 

俺は森下の後ろを指差した。

 

 

 

私は急いで振り返る。背後に人が居る気配なんて一切しなかったから。

でも、それは当たり前だった。後ろには実際に誰も居ない。

「え、だ、れも居ません」

「何を言ってるんですか。さっきからそこで花火を見てるじゃないですか」

目の前で玖類さんは、何を言っているんだろうね? と、虚空に話しかけている。この人こそ何を言っているんだろう。

「貴女が翔吾に会いたいって言うから、サプライズを仕込んでおいたんです。もっと反応してください」

何が楽しいのか彼は私を。私の後ろに居る誰かに、笑いかけている。

「そうだよね。ほら、翔吾も自虐してる。早く森下さん。何か言ってあげてください。会いたかったんでしょ?」

笑った彼の目は真剣だ。本当に彼は、私の後ろに誰かを。三瀬翔吾を見ている。

恐ろしい。得体の知れない彼が恐ろしい。

これじゃあまるで、彼は狂っているみたいではないか。

「玖類さん。貴方は本当に私の後ろに、誰か居ると思っているんですか?」

「思っているも何も、そこに居るじゃあないですか。それじゃあ森下さんは実際に目の前に居ても、それが疑わしいものだったら存在しないと言うんですか?」

それはものによると思うけど。ただ、これだけは言える。彼は本気で私の後ろに三瀬翔吾というクラスメイト? 親友? そのいずれかを幻視している。

「玖類さん。貴方は本気で?」

「森下さん。それじゃあ貴女には見えないのですか? 目が悪いとかではないですよね?」

目は良い。じゃないと、私は貴方が見えないはずだから。私は頷く。

「狂ってますよ、森下さんは。何故翔吾が見えないんですか?」

「逆に、見えない私からすれば、見える貴方の方が狂っています」

私らしくない。こんなこと、普段は言わないはずなのに。狂っているのは私のほうなのだろうか? 他の探偵部の人。そして全校生徒には見えているのだろうか?

私の後ろに居る、三瀬翔吾が。

「あはは。でも、そりゃあ見えないか。いや、狂ってると言いましょうか? いずれにしても森下さんはやっぱり普通じゃないですよね」

反論できない。いや、し難いだけ。それは主観の問題だ。

見えるのが普通な人間と、見えないのが普通の人間がいた所で、その空間に二人しか居ないのであればどちらが最大公約数なのかは分かるはずもない。

そのどちらも、見えている風景が違うのだ。別の風景なぞ思い描けるはずも無い。そして、その見慣れない風景を幻視しろと言われても無理な話なのだ。

そして、不可能なことこそが日常の者にこそ、普通じゃないと、狂っていると言う侮蔑をするのだろう。

見えない私が狂っているのか。見える彼が狂っているのか。どちらにせよ、私には見えないのだ。それは甘んじて受けよう。

でも、それは彼の次の言葉で完全に打ち砕かれることになるのだ。

 

「だからこそ、このような計画を思いついたのでしょうけど」

 

目の前が暗転しそうになった。

 

 

 

「どう――いう」

「まだ白を切るつもりですか? 僕はそれでも構いませんけどね。さっさと終わらせて合流したいですし。ただ、翔吾がさっきから(うるさ)いんですよ。真実を確認しろってね。どうします? 僕としてどうでも良いんですけど」

「――確認を。確認をさせてください」

思わず溜息が出てしまう。まったく、今日は参加できないかもしれないな、花火。

遠くで楽しそうに行われているそれを見て、とりあえずやらないことには終わらないのだと喝を入れる。この人だって、どこまで知られているのか気になるだろうし。

「森下さん。貴女はそもそも妊娠に悩んでなどいなかったのでしょう?」

彼女は頷いた。そう、彼女はそもそも悩んでなど居なかったのだ。

「概念に縛られる貴女の親は、貴女に様々な事を課してきたのでしょう? 幼少の頃から貴女はそういう束縛をされてきたのですよね」

想像に難くない。そもそも、この人の喋り方には最初から違和感があったのだ。誰かに押し付けられたような、型に入った喋り方。そして一緒に盗み聞きした日に、彼女は自分の母の事を嫌いではないが苦手だと言った。そのことから彼女がそのような教育を受けているのだろうと、おおよその目安は自分の中でついていた。

「貴女の母親は概念に囚われていた。そして貴女は妊娠してしまう。そこで貴女は計画するのだ。母親を追い込み、自分ではない誰かを使い、この状況。妊娠したことを。そして、そもそもの状況を打破しようとね。役割に縛られる貴女の母は、自分の娘と言う役割の話を聞かないだろうからね」

「少しだけ、貴方の想像は違います。別に自由を望んでいたわけではないのです」

花火を眺めながら森下は言う。まるで吐き捨てるようで、独白染みた喋り。

「白鳥座は二重星。お互いを引き合い回る星です。私は疲れてしまったのです。回ることに、引き合うことに」

「だから計画したのでしょう? 親の傀儡から逃れる為に」

頷く彼女。

「最初は火遊びのつもりだったのです。私はその未来さえも受け入れるつもりでした」

「では何故?」

「意思が欲しかった。回るしかなかったのではなく、自ら回ることを選んだという確固たる意思を持ちたかったのです。役割から抜け出し、何かを自分の意思で成し、もう一度役割に自分の意思で戻りたかった。でないと、私は以降延々に回ることに疑問を、鬱積を持ち続けて回ることになる」

「だから彼に?」

名前を出すのは躊躇われた。利用されたという事実を余計に意識してしまいそうで。

頷く森下。彼女もどこか寂しそうだ。この空間も手伝っているのかもしれない。つい感傷的な雰囲気になってしまう。

「最初は何気ない雑談だった。そして彼が母と同級生で、しかも二人は交際していた」

「でも、今は違う」

「ええ。母は彼の役割を、概念を見て別れたのです。自身ではなく、地位や能力で彼を捨てたのです。彼では。須崎先生では自身の望む生活ができないと」

「だからあてつけに?」

頷く彼女。

このやり取りで、彼女も母親とすれ違っているのだと気付いた。

須崎先生と陽子さんが別れた理由をそんな風に思っている時点で(、、、、、、、、、、、、、)

「酷い話です。でも、その時は誇れる事だと思ったのです。この人ならば。地位や能力といった母が望むものを持っていない彼ならば、私の役割を壊してくれると。それから一時的に離れられると思ったのです」

「だが、貴女は妊娠してしまう」

「ええ。でも引け目は感じていませんわ」

「そうなることすら良いと思ったのでしょう」

そうです、と頷く彼女。珈琲を啜る音がして、彼女はそれを水道の仕切りに置いた。石を叩く陶器の音は、目の前に秋を臨む空間に寂しく響く。

「聞えは悪いですが、おかげで私は母という重星の引力から逃れることが出来た。母の望む役割から離れることができた。探偵部の皆様のおかげです」

綺麗に微笑む森下。全てを話してしまってから彼女は吹っ切れたのかもしれない。「片棒を担いだような感覚だ」

くすり、と笑う彼女。その仕草は歳不相応で、どこか妖艶だ。

「君は切れるね、誰よりも」

「貴方達ほどじゃあないです」

「いや、結局君の手のひらで踊らされていたわけだろう、俺達は」

「でも、私の手の上だと知っていたのに貴方達は最後まで踊ってくれた。皆様方の。そして、お二人の優しさに付け込んだだけです」

「美人には弱いんだ」

「ふふ、冗談ばかり。貴方は高校生だというのに隙が無さ過ぎて、怖いですわ」

「定義付けできないからかい?」

苦笑する森下。

「怖い人」

「残念。僕はフェミニストのつもりだったんだけど」

「ではもっと私に、優しくしてください」

「でも、それを君は望まないだろう?」

表情だけで彼女は笑う。

「貴方のそういう所が怖いのです」

「森下さん。そのような束縛はね。誰しも少なからず受けているんだよ」

「存じています。自分の夢を子供に託す親。自分と同じ苦労をさせたくないと躍起になる親。それが子供の為だと自らの過去を否定するのです。果たせなかった過去の夢。背負って来た過去の苦労。それらがあるから今があるのでしょうに。それを子に押し付けるのは、自分のようになってほしくないと。自分を否定しているようなものです」

「母親が好きなんだね?」

「当然です。親がいくら苦手でも、全否定できる子が居るはずありません。ただ自らを否定しているわけでしょう? その姿勢が気に入らないだけですわ」

そう言い切る彼女。どこか恥ずかしそうにしているのはそれが本心だからだろう。

ああ、なんだ。この人だってちゃんと歳相応に笑えるんじゃないか。

変な話、下手な笑い方だけど。今までで一番好感が持てる笑顔だ。

「だからこそ、貴女の母親は概念に惹かれたのだろうね。概念は確立したものだから」

「どういう、ことですか?」

予想していなかっただろう、角度からの打ち込みをされて、先ほどまでの表情から一転、戸惑う彼女。

「森下さんに自分の全てを託して、自身は空っぽになってしまったのかもしれない。いや、貴女自身が彼女の夢になったのだ」

「それが、嫌いなのです」

「いや、そうするしか無かったのだ。彼女は未来を夢見ることが出来なかったから」

「意味が分かりません。どういうことですか?」

「そうだろうね。貴女がこの事を知っているならば、そのような発言。いや、このような未来じゃなかっただろう。森下陽子さんは、ナルコレプシーだったんですよ」

「ナルコレプシー、ですか? どのような意味でしょう?」

さすがの彼女もこの病気は知らなかったようだ。自分の母親のことだというのに。いや、母親のことだからこそだ。

「これはね、眠り病という病気なんだ。意識していないのに突然眠ってしまう、治療法の確立していない病気さ。この病気のせいで社会に適応するのが難しく、苦労している人間も多い。貴女の母もその一人だったのだ」

突然に眠ってしまうという不便さ。不遇さ。境遇を脳内で加味しているのか、黙ってしまう彼女。

「そのせいで、貴女の母は学生時代に学業漬けだったそうだ。当然だね。その病気のせいで彼女は人よりハンデがあるのだ。それを取り戻すには人より努力をしないといけない。ただ、努力をしてやっと人並みだからね。だから夢を見ることなんて出来なかったらしい。彼女は先ず、一人前の学生徒になりたかったらしいんだ。望まなくてもなれるものに、貴女の母はなりたかったのだ。そして、彼女が一人前の学生徒になる頃には卒業しないといけない。その繰り返しだった」

「だ、から、でしょうか?」

頷く。

「そう。だから奴隷に憧れたのだ。不動な地位に。変わらぬ役割に。君には同じ苦労をさせたくなかった。だから概念に執着する生き方をするようになったのだ。安定した場所、役割、概念に憧れたのはそれに悩んだから。確固たるものを形成するのに時間が掛かってしまった貴女の母は、せめて娘には自由に夢を見られる環境に居て欲しいと願った。そして、夢を見れなかった自分の代わりに、自分はどうなるはずだったのかを、貴女を通して見てみたかったのだ。もっとも、途中で目的と手段が入れ替わってしまったようだけどね」

「何故、母は私に病気のことを告げなかったのでしょう?」

「得意なのでしょう? 推理してみれば良いじゃないですか。自分のクラスに突然寝てしまう奴が居るんですよ? それはどうでしょう? 事情を知らなければどう思いますか?」

「――変な人が居ると」

「そう。変だ。普通じゃない。貴女が僕に思ったようにね」

「あ、ああ――」

「貴女の母はただでさえハンデを背負っていたのに、その病気のせいでいじめも受けていたのだ。ナルコレプシーは遺伝する病気ではない。だけどね、現在のエイズのように知るための情報が蔓延しているというのに、それが正しく伝わっていない。誰もが触れる機会があるというのに、正確に知っていないという現状から、母親は黙っていたのだろうね。下手に娘に教えてしまい、それが発覚しようものなら、娘は理不尽な迫害を受けるかもしれないと恐れたのだ。もしかしたら、子供からそうされるのを嫌がったのかもしれないね。ただ、彼女はそれが理由で転校することになる。つまり、須崎先生は見捨てられたのではなく。また陽子さんが捨てたわけでもないんだ」

沈黙が流れる。

外からの枯葉が地面を擦る音が室内を満たす。

外ではまだ、季節外れの花火を楽しんでいるようだ。どれほどの量を買ったのだろう?

「――そう。確かに貴女が言うように、僕には誰にも見えないものが見えてしまっている。昔からね。ただこれは僕にとっては普通の。いままで何も思うことが無く自然に付き合ってきた現象だ。僕にとっては普通なのです。僕が三瀬の単語を出すたびに、幼馴染の正志と久那。そして、夏木さんが苦い顔をするのも知っている。ただ、見えてしまうものは仕方ない。そう。幽霊とかが見えるではなく、ただ三瀬が見え、会話でき、触れられる。ただそれだけなんだ。皆よりたった一人だけ。日本の人口を多く感じることができる。ただこれだけなんです。もしこれが普通じゃないと言うならば、貴女はどうなのです? 偽薬効果(プラシーボ)という面では貴女のほうがよっぽど普通じゃないと思いますけどね」

自分を完全に騙しているのだろう。

もしかしたら、自分ですら忘れてしまったのかもしれない。

彼女はゆっくりと、震える様に沈黙を破る。

「なら――」

搾り出すように、彼女には似つかわしくない、小さな声が聞える。

「なら私は正しかったのでしょうか? 執着する母を嫌悪し続けた私は、正しかったのでしょうか?」

「思春期の葛藤に正しいも正しくないも無いさ。貴女は子として正常な反応をしただけに過ぎない。ただ、ほんの少し、君も親も同じように行き過ぎただけだよ」

俺は水場の淵においていたカップに口を付ける。すっかり冷めてしまっている苦味が口に広がる。

目の前の女性は、俯いたまま。何を考えているのだろう?

秋の音が二人の間から流れ、空間を満たす。

「――私達は」

森下が何かを呟いた。

ただそれは満たされ過ぎた秋音にかき消され、上手く聞き取れなかった。

「私達はお互いを方向は違えど、想い合い回る重星だったのですね」

夜空に浮かぶ白鳥座。そのクチバシにある、夜空に浮かぶ二つの宝石アルビレオ。

「そして想いは、お互いに強い引力を生み、引き合い、衝突してしまった」

頷く。中々に詩的だ。星を使う所は天文学部の面目躍如か。

 

「ならば私達は、白鳥座の奴隷のようなものですのね」

 

白鳥のクチバシから逃れることが出来ない、二つの重星。

お互いを想い合う、二つの想星(ほうせき)

気付けば彼女は泣きそうな顔をしている。女性の泣き顔は苦手だ。どうも。

下らないことを考えていると、彼女はゆっくりと俺の方に歩み寄ってくる。とりあえずカップは置いた。

「胸を貸してくださいませんか?」

「広くないけど、良いかい?」

ふふ、と泣きそうな笑い声が聞える。

でも、いつまで経ってもそれが聞えることは無かった。

「泣かないのかい?」

「泣きません」

弱弱しい声で、強い否定の言葉。ただ酷く脆く聞えるのは気のせいじゃないだろう。

「泣いてしまったらきっと、貴方に恋をしてしまいますわ」

はは、それは可笑しいや。

ずっと続けているお約束のような冗談が、ついに真実味を帯びてしまったのかと。

「身分違いの恋は辛いですもの。ですから――」

そういうと彼女は俺の胸に顔を寄せる。

 

「ですからどうか、抱きしめないでください」

 

白鳥座の奴隷は笑った。

 

/あとがき【数分後】

 

「そういえば森下さんの子供、いつ生まれるんだろうね?」

久那さんが花火を両手に持ち、くるくる、と回転しながら尋ねてきた。真面目に火の子が飛んで危ないと思うんですけど、大丈夫なんでしょうか?

「お前、本気で森下が妊娠してると思ってるのか?」

彼女の隣では、延々と煙球で遊ぶ僧正さん。三つの煙球の中で喋ったりして煙たくないのだろうか? というか、確実に体に悪いと思うのだけど。

「え? 違うとですか?」

私の隣で、シャコー、と勢い良く火花を噴出させる倉本さんは、その煙を吸ってしまったらしく、咳き込んでいる。

「違うも何も、すざっさんは一線は越えなかったと言ってるしな」

「ってことは、どういうこと?」

久那さんは終わってしまった花火を、水の貯まったバケツに入れると、新しいのを取りに来た。どうも手に持てる勢いが良いのを探しているようだ。

「森下は子供を望んだが、それは果たされることは無かった。だが、どうしてもすざっさんの子供が欲しかった彼女はそのうち、ってな」

「いや、ってな、じゃなくてさ。どういうことよ?」

「まったく、探偵部ならちゃんと考えろっつの。森下は想像妊娠したんだよ」

そう。彼女は自分で自分を騙してしまったのだ。今を脱却する為に。

「想像妊娠っち、あの犬とかがするやつですか?」

「まあそうだな。それだ。だから今回はほっとけば終わっていたんだ。本来だったらな。ただ、母親も母親で勘違いしてしまったからさあ大変ってな」

お互いに致命的な部分を隠して、勘違いしていたからこそのすれ違い。

「今回の事は全て、あの親子の妄念やらで作られた茶番劇だ。家族だからと以心伝心じゃあるまいに、言葉を使わずにお互いを愛した結果だ。ただ、愛が大きいくせにそれを言葉できちんと伝えないもんだから、こうも規模の大きな事故。いや、事件になってしまっただけ。終わってしまえば何でもない。周囲には何も残らず、ただ家族愛だけが深まったなんてオチだ。もちろん、その為に他者の腕を折るなんて論外だから、今回は事件になった。ただそれだけだ」

それを聞いて、折れた腕が少し痛んだ気がする。すると後ろから物音が聞こえた。

「ごめん、遅れたけどまだ花火ある?」

私の後ろから隣に座るのは、玖類さん。走ってきたのか、息が乱れている。

「はい。まだ沢山ありますよ」

私は持っていた花火を渡す。彼はそれを受け取ると隣で、虚空に天の川を描いた。

 

白鳥座の奴隷/了