/転【怪物退治】

 

久那の腕が折られてから一週間が経った。

あの慰労会から、久那はまるで別人のようになってしまった。

大好きだったサッカーをやる為に苦手な勉強を必死でして、結果が出た矢先だったから。そりゃあ、無理も無いと思う。

次の日に右腕を白い包帯でぐるぐるに巻いた彼女の目は虚ろで、何を見ているのか、何を考えているのか全く分からずに、本当にあの元気な久那なのかと疑ってしまうほどだった。

最初こそ、折れていても平気だとプレイしようとしたらしいんだけど、走ると痛むし、骨がずれるし、ラフなプレイをできないしされたら危ないということで、結局顧問の先生から完治するまで出入り禁止を食らってしまったらしい。目を離すとボールを蹴ったり、筋トレを始めようとするんだからしょうがない。

そんなわけで今の彼女は探偵部で、ぼう、と過ごすことが多くなった。足に重りを巻いて体力が本格的に落ちないようにはしてるみたいだけど、やっぱり腕を折られたということ自体がどうしても精神的にきてるみたいだ。最近はどうしても空元気なところが目立つ。

そして、それに呼応するかのように正志も探偵部に来なくなった。

丁度あの日を境にまったく寄り付かず、廊下ですれ違っても軽く挨拶を交わす程度で、こっちに顔を出すように言っても流されてしまう。あの飄々とした男から想像もできないくらいに、表情を崩さないようになった。

メールの返事も素っ気無く、何をしているかと聞いてみても、調べ物だとか、予習や復習だとあからさまだ。ただ、堂々とそう言いきられる為に、なんとなく食い下がれない感じになってしまっている。

そんな感じで、最初こそ探偵部は俺、夏木さん、あゆみちゃん、そしてちっとも元気が無い久那の四人で活動することが多くなったんだけど、最近では会話の弾まないことや、そもそも会話が無いことが多く、あゆみちゃんも前程の頻度では来なくなっていた。前は毎日のように来ていたのに、今では三日に一回くらいのペースだ。

そして、それを見かねた久那が自分の責任だと思い込んだのか、同じようなペースでしか部室に来なくなった。

久那は被害者だというのに、今の探偵部の雰囲気を作ってしまっているのは自分だと思い込んでしまっている。確かに事実そうなのかもしれないけど、それは不可抗力なことの筈なのに、彼女は更に自分を責めてしまっているようだった。

久那の腕が折られて、俺達はたった一週間でこんなにもバラバラになってしまった。

まるでこの部を作る前の状態に戻ってしまったかのようだ。

そもそも、正志を中心に集まっていたのだ、本人が居なくては結束もクソもないという話なんだろう。部長という役職だけでしかない俺には、みんなを纏める力さえない。ああ、なんて滑稽な話なんだろう。

もしかしたら最初からこんな部活は無かったのかもしれないなんて、ぼう、と考えてしまっている辺り最高だ。

俺にはそもそも出来過ぎた環境だったのだ。

出来れば元に戻ってほしいけれど、どうすれば良いのだろう?

久那の腕が治っても、この部活の結束は直るのだろうか?

「玖類さん」

最近、こうして夏木さんに呼ばれて、自分が思索の海に溺れていたことに気付く。なんて失礼なんだろう。そりゃあ、みんな離れていくってもんだ。彼女もいい加減、愛想尽かしても可笑しくないというのに。

「珈琲おかわり。どうですか?」

いただきます、とカップを差し出す。彼女はそれに微笑で受け取り、俺に背を向けた。カップに液体が注がれる音がする。

「今日、二人ですね」

カップを机に置いて、彼女も自分の席に着く。

「今日も、ですよ」

まるで嫌味のようだ、と言ってしまった後に気付いて更に自己嫌悪。俺ももうこの部に来ないでおこうかな。じゃないと、彼女にまた嫌味を言ってしまうかもしれないし、こんな思考にどうしても行き着いてしまう。この環境が心地よすぎたから、自分の中で占めている部分が大きすぎたから、失ってしまった俺はどうしても何かあるごとにそれに縛られてしまっていた。

「明日も、二人かもしれませんね」

夏木さんは、そんなことどうでも良いのか、それとも気付かなかったのか、自分のカップを口に付ける。

「そうかもしれません」

「何かしましょうか?」

もうとっくに推敲も終わってしまっている。手持ち無沙汰だった俺達は、いつもよりも早いペースでそれを終わらせてしまっていた。

「夏木さんは何をしたいです?」

「――分かりません」

俺も、彼女とまったく同じ意見だ。

俺は何をして良いのかさっぱり分からない。

「ただ――」

そう、彼女は呟くように言う。

「ただ、許されるなら、前のように沢山笑いたいです」

どこか寂しそうに言う夏木さん。

その意見も、感情さえも、俺とまったく同じだった。

どうすれば良いのだろう?

どうすれば前のようにみんなで笑えるのだろう。

久那の腕が治ったら戻るとは思えない。

ならば、俺は何をしないといけないのだろう。

そして、正志は何をしているのだろう。

「玖類さん?」

俺が固まってしまっていて不安になったのか、彼女は俺を机に伏せるように、俺を覗いていた。その仕草は普段落ち着いている彼女から想像できなくて、つい苦笑してしまう。

「酷いです。心配していたのに」

そう、彼女も言いながら苦笑している。

なんだ、こんな簡単に笑うことなんてできるんじゃないか。

それじゃあ、どうすれば前のように沢山笑うことができるのだろうか?

「夏木さん」

その前に宣言しないと。決意表明というやつだ。

そう、俺は腐ってもこの部の部長なのだから。

「探偵部を元通りにしましょう。遅かったけど、やっと決意しました」

俺の言葉に、彼女の表情は自然と晴れやかになっていく。

「――はい。はい! 私、その言葉を待っていたんです」

って、待ってたのか。言ってくれれば良かったのに。っつか、自分から言い出さなきゃダメなのかな、こういうのは。

彼女はそう言うと実に嬉しそうに携帯を開き、どうやらメールをしているようだ。

俺は小恥ずかしくなって少し冷めた珈琲を一気飲みする。

さて、まずは何をするべきだろう。どうやったらこの探偵部は元に戻るだろう。無くなってしまった珈琲を作っていると、扉が勢い良く開いた。

「こんにちはー、先輩!」

この部で先輩なんて言葉を使うのはあの子しか居ない。

振り向いてみたら、案の定あゆみちゃんだった。ちょこちょこ見てたけど、こんなに明るい彼女を見るのは久しぶりな気がした。

「先輩、ついに動くらしいですね!」

俺のところに忙しなくやってきた彼女は、挨拶が終わっての開口一番にそんなことを言った。どういう意味だろう? 確かにこの部を元に戻そうと決意したばかりだけど。彼女が知っているということは、さっきメールもしていたしソースは夏木さんなんだろうけど、ついにってどういうことだ?

「実はですね、私達は久那さんの腕を折った犯人を捜しているんです」

嬉しそうに、夏木さんがこっちに歩いてくる。というか、部室の隅に珈琲メーカーを置いている関係上、俺は彼女達に囲まれる形となる。二人とも笑いながら俺を囲んでいるため、不謹慎だが、かなり怖い光景のようにも思える。

まあ、敵意なんて無いとは分かっているんだけど。

にしても、久那の腕を折った犯人を捜しているって言ったけど、どういうことだろう。いや、そのままの意味なんだろうけど、なんでだ? それに、それは。

「女の子二人で、腕を折るような奴を探してるだなんて、危ないじゃないですか」

もしかしたら、二人のどちらか。いや、二人とも腕を折られる可能性だってあるというのに。

「でも、今から男性も一緒ですので」

ね? と夏木さんは微笑んだ。まったく、こういうところは大人っぽいというか。同い年なんだからそういうことしないでほしい。恥ずかしいから。

「でも、なんだって犯人を捜してるんですか?」

俺の言葉に、二人は顔を見合わせる。

「久那さんの腕が治ったとして、前と同じような関係にこの部がなるかといえば、疑問です。なるかもしれないですし、ならないかもしれない」

頷く。未来のことなんて分からないに決まってる。それが不確定な要素を多く含むのならば尚更だ。

「でも、久那さんは普通の推理小説のように殺されたわけではなく、言い方が悪いですが、腕を折られただけ。それじゃあいつかは治りますよね。もし、彼女が完治した際に、また腕を折られることを恐れていたら、以前と同じような雰囲気にならないと思います。なら、その可能性を排除した未来ならば、元の円満な関係に戻る可能性は高くないですか?」

なるほど。彼女達は俺が、ぼう、と過去に戻りたいと思っている間に、今を過去に近づける為に色々動いていたのか。

まったく、何て俺は木偶なんだろう。自分で恥ずかしくなってくる。これで部長っていうんだからさ、まったく。お飾りだとはいえ改めて自己嫌悪。俺が思い立ったことを彼女達は何日も前から考え、実行しているのだから。

「でも、何で言ってくれなかったんですか? 危ないと分かっているからこそ、男手があったほうが良いと思ってたんでしょ?」

二人ならとっくにそれが危険なことだと分かっていたはずなのに。

「僧正さんが玖類さんに相談するのを止めてたんです」

正志が? なんだってまた。俺が頼りないからだろうか? まぁ、そりゃあ、正志からすればそうかもしれないけど、目の前の女性陣に劣るほど、精神的にはともかく、肉体的には劣ってないはずなんだけど。

「先輩、自分で気付かなければ意味が無い、って言っとったです」

それは俺の部長としての資質を試していたのだろうか? 分からないけど俺は自分で決意したんだから、一応気付けたんだよな? 遅かったけど。

「それじゃあ、俺も犯人捜しに協力するよ」

俺の言葉に二人は笑顔で頷いてくれた。

さて、それじゃあ楽しい未来に進む為に、努力でもしますかね。

 

 

 

「とりあえず、どこまで進んでるの?」

「はい。とりあえず説明しますと、私達が捜査を始めたのは三日前なんですね」

今日で久那の腕が折られて丁度一週間。その三日こそが頓馬(とんま)な俺と彼女達との差だ。

「犯人を捜すことで久那さんの不安を取り除こうという名目で捜査を開始しました。まずは何故、犯人は久那さん、私の友達の由美子、2―Cの尾野さん。2―Dの武野さん。2―Bの酒見さん達の腕を折る必要があったのかを――」

「って、そんなに腕を折られた人が居るんですか?」

既に五人になっていたなんて。久那が折れた時点で二人居たのは知ってたけど、更に二人増えたのか。

夏木さんはそれに頷く。

「何故犯人は腕を折る必要があるのか。それを考えないといけません」

「愉快犯とかじゃあ?」

「それだったら考えること自体が無駄になりそうですが、その方向は考えないことにします。もちろん、愉快犯じゃないと思うにも根拠があるのですが、その前に」

夏木さんはそういうと、カップに口を付ける。

「玖類さん、問題です。推理小説において、犯人が犯行を行う条件とはなんでしょう?」

犯行を行う条件? しかも推理小説において? それは何の意味があるのだろう?

「えっと、犯罪を行うことがメリットに繋がるから、でしたっけ?」

この部を発足した最初の頃。まだ小説というものを書いたことが無く、更に書き方、推理小説というジャンルの定義さえ不明瞭だった頃は夏木さんに色々教えてもらっていた。その時彼女は推理小説に限らず、現実でも犯罪を行う人物に共通することは、犯行を行うことにより、自分に多大なメリットがあることだと教えてくれた。

自分が捕まってしまい、犯罪者となるかもしれないというデメリットを差し置いても尚、メリットになりうる場合に強烈な動機になるのだと。

考えてみれば当たり前で。金が無く飢え死にしそうな場合、目の前のパンをどうして盗まずにいられるだろう。

殺されそうな場面で、相手を殺すことが唯一の生き残る方法だとしたら、殺すことこそが自然なのだという具合に。

それではこの場合、腕を折ることにより得られるメリットは?

そういえば、久那が折られる前の二人に、俺はどんな感想を持ったんだっけ?

「その通りです。逆説的に言えば、メリットが無ければ人は犯行を行いません。ある意味で、愉快犯は快楽というメリットをもって犯行を行っているのかもしれませんが、今回は置いておきましょう」

そうだった。愉快犯じゃないと言い切れる確証が彼女達にはあるのだった。

「先輩。被害者の共通点、分かっとーですよね?」

あゆみちゃんは試しているのか、俺の方に笑顔を向けた。でも、笑顔を向けるような場面じゃないと思うんだけど。

えっと、共通点は。

「全員二年ってことだろ?」

「はい。その通りです」

あゆみちゃんも親指を立ててくれる。つうか、馬鹿にしているだろ、さすがに。

「私達も被害者は全員二年ということから入りました。逆説ですが犯人は、二年生の腕を折る事がメリットに繋がる人物です」

「それはさすがに漠然としすぎているような」

漏れた感想に頷く二人。

「もちろん、そこから更に絞り込みます。具体的に言えば、被害者の共通点を絞ることで、犯人のメリットを具体化させようと考えました。そして、私達の時は久那さんに加えて2―Dの武野さんも被害者に加わっていましたので、四人の共通点を挙げて行ったんです」

確か、俺も最初の二人に対して、何かを思ったんだよな。なんだったっけ?

「それは、全員が前回と今回のテストの成績優秀者ということでした」

ああ、そうだった。確か結果表を見て前回の結果が良かったのに可哀想だなと思ったんだっけ。

「そして、今回の酒見さんも同じように成績優秀者ですね。具体的に言えば、毎回一桁から十位くらいの人です」

成績上位陣ということが共通点か。つまり久那は今回頑張ってしまった為に犯人に狙われたということになる。なんて理不尽なんだろう。彼女は本当に何もしてないのに。いや、努力をして結果がきちんと残せたからこその待遇だ。哀れすぎる。

そして、それがメリットになるとういう人間は誰だろう? 久那の腕を折った狂った野郎は。

俺の考えていることが分かるのか、彼女は頷いた。まあ、話の流れ的にもそう行き着いて当然だろう。

「んで、ですね。成績上位者の腕ば折ることが、メリットになる人間って、どげんか人間やと思います?」

「そうだな。自分の成績が上がる人、じゃないかな」

「他にはどうです?」

「成績が追い越されそうになっている人、脅かされている人、とかかな?」

そうですね。と夏木さんは微笑んだ。どうやら概ねそれで正解らしい。

「私達も大体同じような見解です。そして、中間が終わったのにこの事件が続いているということは――」

「つまり、期末まで成績上位陣の腕が折られる可能性があるってことだね」

二人は頷く。

「今のところ、これが私達の纏めた全てですね」

なるほど。つまり、後最低でも期末までの二十日間、誰かが腕を折られ続けるということか。もちろん、そんなことはさせないけど――って。

「二年の成績上位陣ってことは、夏木さんと正志も入ってるじゃないですか!」

夏木さんはそれに微笑を浮かべた。隣ではあゆみちゃんが、びくっ、と震えた。

「大丈夫です。まだこの法則が完璧だと決まったわけではないですし、法則を知ってるわけですから、警戒もしやすいです。それに、その前に犯人を捕まえてしまえば良いんですから」

夏木さんはそういうと、カップに口を付ける。

まったく、そう簡単にいかないと分かってる癖にそんなこと言うんだもんな。この人は。まあ、らしいっちゃあ、らしいけど。

「さて、私か僧正さんが被害にあってしまう前に犯人を特定しないとですね。玖類さんは他に何か法則性が分かりました?」

そんなこんなで、特に他の法則性を見出せないまま昼の部活は終了した。

 

 

 

学食で晩御飯を食べた後、一旦着替える為に解散することにした。

念には念ということで、夜部活には夏木さんは参加しないということを、学食で本人に無理やり了承させて現在に至る。

どうせあゆみちゃんは着替えに時間掛かるだろうし、俺は一足先に珈琲でも作っておこう。

そんなわけで蛍光灯のみの薄暗い廊下を歩いていると、小さな声が聞えてきた。

方角的には一階の職員室辺りだ。気になるし、誰が話しているかだけ確認しようと俺は階段へ向かう。

そして、こっそりと階段を降りようとした矢先、変な話だが。本当に変な話だが先客が居た。

しかも、それは俺の知ってる人で、一番こういうのが似つかわしくない人だった。

「何してるの、森――」

瞬間、音を立てずに立ち上がった彼女は、俺に向かって人差し指を口元につけ、黙れというポーズをする。しー、という音でばれそうなんだけど、下から聞えてくる会話は止まっていないため、ばれてはいないみたいだ。

忍び足で近づいてくる森下さん。まったく、折角綺麗な人なのに真面目に台無しだ。

「こんばんは、良いご趣味ですね」

「ありがとうございます。玖類さんも同じ趣味をお持ちのようですが?」

まあ、俺も同じ事を考えていたので、反論できないわけで。

「奇遇です。中々理解してもらえない趣味でして」

無論、盗聴やら盗み聞きが趣味ではない。これだって単なる好奇心だし。

「私もです。ここはひとまず、お互いの趣味を優先させませんか?」

つまり、お喋りじゃなく盗み聞きを一緒にってことか。まったく、この人のイメージが真面目に崩れていく瞬間だ。

そんなわけで、こっそりと二人でさっきまで彼女が居た場所に行くことに。なるべく静かに階段に座る。

下から聞えてくる声は、俺たちの担任で、彼女の顧問の須崎先生だった。

「あれ? すざっさ――」

痛、――くはない。あまりに急な衝撃を加えられたのでそう感じてしまっただけだ。

森下さんの右人差し指が俺の唇に当てられている。真面目に黙れという意味なのだろう。しょうがないので俺はそれに従い、素直に盗み聞きすることにする。

つうか、どういうシチュエーションだよ、これ。

彼女の細い指が俺の唇に触れている。気持ち悪くないのだろうか?

俺は静かに指をどける。

「もう何年になるの?」

「どれくらいだろう。でもここ五年くらいはこっちだよ」

「変わらないわね」

「君は変わったよ」

「そうかしら?」

「ああ。昔より活発になったんじゃないか?」

「ふふ、おかげさまで」

下で話しているのは誰だろう? 一人は須崎先生の声で間違いないんだけど、相手の方に聞き覚えがあるようで無い。

「娘がお世話になってるようで」

「担任じゃなくてただの顧問だよ。保護者みたいなもんさ」

「本当かしら? 欲情とかしてない? 昔みたいに」

「おいおい、俺を好色魔みたいに言わないでくれよ」

「冗談よ。昔から変わってないのね、その癖」

「癖?」

「あら、気付いてなかったの?」

「どういうことだい?」

「ふふ、秘密よ」

「なんだい、それ」

話を総合すると、須崎先生の顧問といえば天文学部なわけで。一応他にも部員は居るんだろうけど、隣に居る森下さんも天文学部。そして、あの相手の声や物腰は何となくだけど、隣に居る森下さんに似ている気がする。

たぶん、彼女の母親なんだろうな。

まあ、そりゃあ、盗み聞きしたくもなるかな?

これはアレだ。家庭訪問された時の親と教師の会話に神経を尖らせているみたいな心境なんだろうな。変なこと言わないか心配なのかもしれない。

でも、それは杞憂な気がする。まず須崎先生は森下さんの悪口なんて言わないだろうし。それに二人の会話からはそういう匂いがしてこないし。

なんというか。親しすぎるというか。

「それじゃ、そろそろ行くわ」

「そうかい? それじゃ、集会おつかれさま」

「貴方も司会ごくろうさま」

その会話が終わるとそれぞれ別の方向に足音が別れて行く。一瞬こっちに来るかもしれないと心臓が跳ねたが、杞憂に終わってくれた。

「はぁ。あまり気持ちよくない趣味だね、これ」

「あら、これが趣味じゃなかったのです?」

「残念。俺は成り行きです」

「そうですか」

む、ここで否定しないということは、真面目にこの人の趣味なのかもしれない。何て、自分で考えて苦笑してみる。彼女もそれに合わせて何を思ったのか苦笑した。

「聞かないんですか?」

「聞いてほしいんですか?」

そして、お互いに再度苦笑する。

「気にならないのですね」

「気にならないわけじゃないですけど、立ち入ってしまうと森下さんと会話しなくちゃいけない。ですので、聞きません」

森下さんは狐につままれたような顔をしたかと思うと、微笑を浮かべる。こういうところは本当に綺麗だ。冗談みたいに。

「私の事嫌いですか? 残念です」

「嫌いじゃないですけど、苦手です。それに勘違いするかもしれないので、そういうの止めてくださいと言ったじゃないですか」

「あら、勘違いしてもらっても構いませんよ?」

「でも、それで報われないのなら意味がない」

「そうでしょうか? 片思いって素敵じゃないですか」

「ほら、やっぱりそっちにはその気がないじゃないですか」

「ふふ、こういうの楽しいですね。普段はできないので新鮮です」

「残念。僕はこういうの苦手なんです」

まったく、今日は厄日に違いない。

「あら、とてもお上手に見えますけど」

「そりゃあ、鍛えられてますからね。それなりにはできますよ、こういうことも。ただ、俺が面白くないんです」

相手がこの人じゃなかったら、それなりに面白いかもしれないけどさ。

少しの間沈黙が流れる。なんだか立ち上がり辛い雰囲気だ。さっさと部室に行きたいのに。

「さっきの須崎先生と話していたの、私の母なんです」

相手は会話をするつもりらしい。まったく面倒臭い。ここで離れるわけにいかなくなったじゃないか。

「何となく分かってましたけどね。でも、妙に親しそうでしたね」

「ええ、昔の同級生だったそうです」

「へえ。このセカンドで再会するなんて、偶然ですね」

「本当です。母はPTAの会長ですので、こうした集会には顔を出すのですが、その際に司会進行をしていた先生と再会したみたいですね」

今日はPTAの集会だったのか。そして、須崎先生がその司会だったと。

俺が相槌を入れないもんだからまた沈黙が流れてしまった。

「本当に私の事苦手なのですね」

苦笑する彼女。

俺は同じように苦笑しながら頷いた。

「最後に、一つだけ良いですか?」

頷く。

「玖類さんはご自身の母親のこと好きですか?」

母親のことか。そんな意識するようなこと無かったけど、改めて考えてみてもやっぱり特に意識することはない。優しいし、すぐ怒るけど、普通の親な気がする。どうなんだろうか。好きも嫌いも無いからこそ、親な気がするんだけど。

「普通ですよ。特に何も感じない、どこにでも居るような親です」

「あら、貴方でも普通という言葉を使うのですね」

へえ。本当に良く俺のことを見てるな。この人は。確かに意識的に使わないようにしているのに、つい出てしまったみたいだ。

「そりゃあ、使いますよ。俺ほど普通な人間もいないですからね」

普通というのは当事者が基準なのだから。そういう意味じゃあ、普通なんて何処にも居ないしありえない。自分は一人しかいないのだから。

「ふふ、面白いですね。浅く取れば驚かれるでしょうけど、深く取れば頷けます」

浅く取ればということは、俺はそんなにも普通じゃないってことなのか。心外だ。俺の目の前に居る彼女だって、まさしく普通じゃないっていうのに。

「それにしても、森下さんの育ちの良さはやっぱり母親譲りなんですかね」

「――どうしてですか?」

「笑い方が同じです」

「――そうですか」

何だか色々思うところがあったのか、彼女は考え込んでしまった。

「そういえば、森下さんはどうなんですか?」

「え?」

「母親のこと」

「そうですね」

彼女はそこから少し間を空けて、はっきりとした口調で。

「私、母のこと苦手です。決して嫌いではないのですけど」

と笑った。

「それではこれで失礼します。さすがに廊下にこれだけいれば、秋口とはいえ寒いですね」

俺の思考を遮るように、彼女はまくし立てて去っていく。

にしても、苦手か。あんなに似ているのに苦手なんてのも、面白い話だな。似ているからこそ、苦手なのかもしれないけど、同属嫌悪とかいうやつで。でも、親をそこまで嫌悪するのか?

俺は苦笑しながら部室へ向かった。あゆみちゃんを待たせてしまっているだろうな。

走っていけば案の定、あゆみちゃんは実にご立腹なご様子で、部室でミルクティーを飲んでいた。

遅れた理由を言うと、彼女は更に機嫌を損ねてしまったようだ。

危なかっち分かっとー夜に、可愛か後輩ば置いてけぼりで、先輩様は逢引ですかー、と大変ご立腹な彼女の機嫌を取る為に、俺は二十分ほど彼女を褒めちぎらなければいけなかったのだった。

 

ガキッ

 

 

控えめなノックの音で目が覚めた。

確実にこの時間帯にこんな音はしないと分かるだけに、驚いて目が覚めたという方が正しいかもしれない。

結局あゆみちゃんのご機嫌を取って、さっきまでのことを少し話してなんの進展もないままに午後九時になり雨も降ってきたということで、早めの解散をした。流石に法則性から漏れているとはいえ、それは確実じゃないわけだし、女の子を一人で帰らせるわけにはいかないというわけで、あゆみちゃんを女子寮まで送って帰り、やる事も無いので早めに就寝した。

そして携帯の時計を見れば十一時。本来夜部活が終わるのが十時くらいなのでそこまで遅い時間じゃないけれども、十時半が完全消灯なので警備員が巡回している。その目を潜ってここに来たということは正志かもしれない。

早くドアを開けてあげないと警備員に見つかってしまうかもしれない。見知らぬ誰かと部屋の中と外で変な緊張感を共有する瞬間というやつだ。

俺はベッドから降りてドアを開ける。

その向こうには何故か夏木さんの姿があった。

無論、男子寮と女子寮の行き来は基本的に禁止だ。特に男子が女子寮に入ろうもんならそのバッシングは顕著で、もしや治外法権でも敷かれているんじゃなかろうかと思わんばかりだ。ただ、たまに逆もあるみたいで、その場合は特に何も聞かない。男子寮は来るもの拒まずなのだろう。

「とりあえず、見つかると不味いので、どうぞ」

彼女は無言で、しかも全身びちょ濡れで部屋に入ってきた。

「っと、タオルが要りますね。にしてもどうしたんで――」

言い終わるのを待たずに、夏木さんは黙って俺に抱きついてきた。

じんわりと、服が濡れて行く。

何が起こっているのだろうか?

濡れた彼女を通して、熱が逃げていく。

何故彼女は俺に抱きついているのだろう?

彼女の髪から良い香りがする。

でも何故彼女は俺に抱きついているのだろう?

小動物のように震える彼女。寒いのだろうか。

俺はどうして良いか分からず、ただそうしているしかできない。

ああ、考えたくない。

何故彼女がこの部屋に来たのだろうか?

何故彼女は俺に抱きついているのだろうか?

そして、何故。

 

彼女の右腕は俺に巻きつくことなく、ぶら下がっているのだろうか?

 

ああ、考えたくない。

彼女の震える左腕が痛い。

ちっとも力の篭っていない左腕が痛い。

彼女がすすり泣く、その泣き声が痛い。

俺は考えることを止めて、濡れた彼女を抱きしめた。

それがきっかけだったのだろう。彼女は途端に俺の名前を呼んで泣き始める。

ああ、そのあまりの痛さに狂ってしまいそう。

俺達はお互いがそうならない為に、お互いを強く抱きしめ合う。

いつしか、俺達は一緒になって濡れてしまっていた。

 

 

 

夏木さんはひとしきり泣き終わると、小さくクシャミをした。そりゃあそうか。森下さんも言ってたけど、夏も終わってしまったんだから、濡れたままにしたら風邪を引くってもんだ。

ベッドの一階に腰を掛けてもらい、俺は部屋中のタオルというタオルをかき集め、彼女に渡した。

「足りなかったら言ってください。まだタンスの奥に眠ってると思うんで」

小さく、はい、と頷くと左手で頭を拭き始めた。その仕草はどうしてもぎこちなく、彼女の身長もあいまってまるで子供のようだ。

「手伝いましょうか?」

俺の思わず出てしまった一言に、彼女は少し間を置いて頷いた。

「腕が痛かったら痛いって言ってくださいね」

俺の言葉にまた小さく頷いたのを確認して、俺は彼女の頭を拭き始める。

どれくらいの力を入れて良いのか分からないし、腕に負荷を与えるかもしれないのでゆっくりと優しく拭いていく。

彼女の黒い髪が白地のタオルの中で小刻みに踊る。

「痛くないですか?」

「はい。優しくしてくれるので、平気です」

それじゃもう少し強くしても良いかもしれない。というか、ゆっくりやっても乾かないし、それで風邪も引いたら本末転倒だ。

くしゃくしゃ、と髪が擦れる。そのたびに、実に不謹慎だけど良い香りがする。

「どうして俺のところに?」

まずは保健室だと思うんだ。それか救急車。というか、女子寮長室とか。腐っても友達の所とか。

俺の疑問に彼女は、ゆっくりと搾り出すように。

「分かりません。ただ、痛みに耐えながら、歩いていたら、ここに居たんです」

それは嬉しいようなどう返せば良いのやら。まあ、一番近かったのかもしれない。聡い彼女のことだ。きっとそうだろう。

両手を使いタオルで拭いていると、不意に夏木さんがタオルから出てきた。その顔は今にも泣きそうだった。

「あ、すいません。痛かったです?」

少し力を入れすぎたかもしれない。痛いのを我慢させていたとしたら申し訳ない。

彼女はそれに首を横に振って否定してくれた。

髪をあらかた拭き終わり、優しく顔をタオルで撫でるように拭く。

「えっと、後はどうしましょうか」

後は体とかを拭かないとなんだろうけど、さすがに俺が拭くわけにいかないだろう。

「と、とりあえず、俺外に出ときますんで、体を拭いて、ああ、ダメか。服だ、服。えっと、俺のシャツで良いですかね? っと、じゃあ、出しときますんで、着替えれますか? じゃ、とりあえず出ときますので、終わったら呼んでください」

俺はとりあえず急いで部屋を出る。

外は無論、非常灯しか点いておらず、しかも警備員が巡回しているというおまけ付きだということをすっかり忘れていた。

これでもし見つかったら不味いことになる。しかも部屋には夏木さんが居るし。どっかに隠れないと。

と思った矢先に俺の部屋が、カチャ、と開いた。もう終わったのかな? というか早すぎるような気がするんだけど。

「入ってください」

顔だけ出した夏木さんが俺を部屋に招く。

まあ、見つかると不味いので俺はそれに素直に従う。まったく、さっきから落ち着かないな、俺。テンパってるじゃないか。

部屋に入っても、夏木さんは当たり前のようにさっきまでの姿で、髪だけは、ぼさぼさだけど乾いていた。

「部屋に居てください。そこまでご迷惑を掛けられません」

「でも、それじゃあ着替えられないでしょ?」

「――なら後ろ向いてて下さい」

そんなんで良いんだろうか?

信用されているんだろうけど、逆に俺の方が困る。

何が困るか分からないけど、とりあえず困る。

俺が、ぼうとしていると彼女が服のボタンを外し始める。俺は慌てて後ろを向いた。

しばらくすると、ぱさっ、とテーブルの上から音がする。夏木さんの服が置かれたのだろう。そして、後その音が二回する。ヤバイ。心臓の音が彼女に聞えてないだろうか? 滅茶苦茶落ち着かない。今振り返ったら、夏木さんは。ヤバイ。想像するだけでそわそわしてしまう。というか、立ってるだけなのがこんなに辛いってのもないよな実際。というか、何俺は考えているんだろう。

腕が折れてしまっているからだろう、実にゆっくりとしたペースで着替えは行われる。いや、俺が緊張しすぎてそう感じただけかもしれないけど。

「玖類さん。こっちを向いてもらっても良いですよ」

ゆっくりと小さく呟かれた声に、俺もゆっくり振り返る。

目の前には俺のTシャツを着て、腰にバスタオルを幾重にも巻いた夏木さんが居た。

そりゃそうか。俺の下着を着るわけにいかないし。なんて冷静を保とうとしているけど、どうもダメだ。証拠に何を言って良いのか分からない。

テーブルの上には膨らんだタオル。その下にはきっと彼女の服が置かれているのだろう。

「あの、何か言ってください。恥ずかしいです」

ああ、俺って何てデリカシーが無いのだろう。いや、分かっていたことだけどさ。

彼女は時折、痛みに耐えるような仕草をする。そりゃあ痛いだろう。っと、まずは。

「えっと、とりあえず座りましょうか」

ずっと立ちっぱなしもなんだし。お互いがお互いにどうして良いか分からななくなっているというか、確実に変な雰囲気だけは流れていると分かっているというか、ああもう、何を考えているんだろう俺は。落ち着け。とりあえず座ろう。彼女は怪我をしているのだから。

そういうわけで、ベッドにもう一度腰を掛ける。

しばらくお互いに何を言うでもなく、ただ時間が過ぎていく。

「あ、そうだ。あゆみちゃんに着替えを持ってきてもらいましょう!」

ヤバイ、名案過ぎる。というかこんな格好の夏木さんと二人っきりなんてのが可笑しいんだ。まず着替えてくれたらいつも通りの感じになるだろうし、三人ならますます大丈夫だ。

「でも、もう時間も時間ですし、来ていただけるでしょうか?」

む、正論だ。確かに時間は十一時だし、今からこっちに来るということは、警備員の目を盗んでこないといけないわけで。

「えっと、じゃあ保健室の先生とか。痛いでしょ?」

それに彼女は頷く。

「着替えて落ち着いたからでしょうか? 痛みが酷くなってきた気がします」

というか、痛みを感じられるようになったというのが正しいのかもしれないけど。

「じゃ、電話しますね」

生徒手帳に保健室の番号が書いてある。正確に言えば保険医の電話番号なんだけど。

とりあえず電話をする。

『もしもし?』

「あ、もしもし、2―Aの玖類です。ちょっと来てもらいたいんですけど」

『来てもらいたいって、どうかしたの?』

「いや、あのですね。ちょっと急病というか、急用というか、急を要するというかですね。ああ、あと実に言いにくいんですけど」

『どうしたの? というか、きちんと用件を言ってくれないと先生困るなあ』

「えー、女性用の下着か何か持ってきてもらえませんかね? あと包帯も」

『はぁ? え、いや、ちょっと待って。え、そういうことなの? ちょっとマニアック過ぎない?』

「いや、多分先生が想像していることは何一つ当たっていませんが、真面目に急いでますのでよろしくお願いします。ちなみに、部屋番は206ですので」

『え、っていうか、あー。ちょっと待っててね』

そう保険医の天音先生は電話を切った。絶対この人勘違いしているよ。というか、用件を言い出せなかった俺も悪いんだけど。まあ、誤解は後で解けば良いだろう。

「すいません、玖類さん」

夏木さんは申し訳なさそうに俺に頭を小さく下げた。

「いや、良いですって。もう少しで来てもらえると思いますんで、その時に下着を。下はジーンズでよければ」

彼女はそれに微笑を浮かべた。まったく、痛いだろうにそんな顔をしてくれなくても良いのに。

そんなわけで、肩を並べてベッドに座る。

そろそろ聞いても良い頃かな?

「夏木さん。どこで襲われたんですか?」

これが部屋の中へ押し入ったとかだったら、もう笑えないな。

「言いにくいですが外ですね。中庭辺りです」

「何時くらいです?」

「えっと、九時くらいですかね?」

ということは、俺たちが夜部活をしている間だ。

「でも、なんでまた」

危ないから誘ってなかったのに。

「仲間はずれにされたとは思っていませんでしたけど、それでも早く解決したくて、聞き込みをしようと」

つまり、俺が彼女を夜部活に参加させなかったから彼女の腕は折られたのか。

「すいません。俺のせいですね」

「違います。私のせいです」

こういうのはこうなると分かっているけど、どうしても言ってしまう。

客観的に見れば夏木さんの方が悪いんだろうけど、それをさせてしまったのには俺にも少なからず原因があるわけで。

そして、お互いにそれを分かっているから一瞬無言の間が流れる。

ふと彼女の方を見れば、俺のTシャツでさえ彼女にしてみれば大き過ぎるらしく、彼女の胸元が見えてしまった。

あっ、と俺は一瞬声を上げてしまい、顔を背ける。

夏木さんは原因が分かったらしく、すぐに胸元を左手で整えた。

そして、今度は別の理由で沈黙が流れてしまう。

そして、その沈黙を破ってくれたのは、俺でも夏木さんでもなく、ノック音だった。

「はい、ちょっと待ってください」

俺は部屋のドアを開ける。ドアの向こうには保険医の天音先生と担任の須崎先生が居た。

「あれ? すざっさんも?」

「ああ、玖類。お前がやらかしたって聞いたからな」

意味不明だ。

「入るわよ」

問答無用で天音先生が部屋の中に入る。

「っと、夏木さん? 大丈夫?」

この人も確実に勘違いしている。しかも致命的な方に。

とりあえず、夏木さんの格好が格好なので、俺達は部屋を閉め出される。

「おい、玖類。お前って奴は、そんな奴だとは思わなかったぞ」

「誤解です。真面目に先生が思ってる事は勘違いですから」

「誤解だと? 夏木があんな姿で、しかも天音先生に下着まで持ってこさせてか?」

「それでも誤解ですって、ああもう、というか、俺がそんなに信用できないですか? というか、何で担任のすざっさんが居るんですか?」

「夜中に異性の生徒に教師が呼ばれた場合、必ず別性の教師が同伴するのが規則だからだ。何かあったら困るだろうが」

む、なるほど。だから須崎先生がいるのか。

「話を変えるな、お前はまだ若いん――」

須崎先生が勘違いのまま俺にお説教を始めようとした瞬間、ドアが開いて天音先生が顔を出した。

「とりあえず中に。もう消灯時間過ぎてますし」

というわけで、事情を全て悟った天音先生が須崎先生に説明して、とりあえず三人で病院に向かうことになった。

俺が解放されてベッドに沈む頃には、日付が変わってしまっていた。

 

 

 

「せ、先輩!?」

翌日。探偵部に顔を出したあゆみちゃんの第一声目がそれだった。

「どげんしたとですか、夏木先輩!」

「あはは、ちょっとやられてしまいました」

そんな風に、実に自然に振舞う夏木さん。

痛々しいけど、久那の前例があるせいだろう。自分は落ち込んだらいけないとでも言わんばかりに、いつも通りの夏木さんだ。実際にあまりこたえてないのかもしれないと錯覚してしまうほどに、自然だ。

でも、昨日の彼女を知っているだけに。俺はどうしても彼女のそれが強がりにしか見えない。

気付けば、あゆみちゃんが夏木さんに抱きついている。彼女の包帯とギブスを避けるように、実に愛しそうに夏木さんを抱くあゆみちゃん。後輩とはいえ、身長は彼女の方が頭一つ分くらい高いので、自然に見えてしまう。ただ夏木さんを抱くあゆみちゃんは泣きそうな顔をしている。どういう心境なんだろうか。やっぱり仲の良い人が被害に合うのは許せないのだろうか。

そう考えて。夏木さんが何故昨日出歩いたのかが何となく分かった。

俺達は久那がきっかけだったけど、夏木さんは違う。彼女は自分の友達である小島由美子も腕を折られているんだった。そりゃあ、俺たちよりも犯人を捕まえたいという気持ちが強いのは当然だろう。敵討ちのような、復讐心にも似たような強い感情だったに違いない。

そして今、少なくとも俺はそういう気持ちになっているから。

久那に引き続き夏木さんも。どれだけ俺たちの環境を狂わせたら気が済むのだろう。

俺が密かに心を燃やしていると、最近では珍しく扉が開く音がした。

しかもこのスムーズさは。

「お、おーす。やってる?」

ぎこちなく、飲み屋の暖簾(のれん)を潜るように久那が入ってきた。

「久しぶりだね、久那」

「うん、四日ぶりくらい?」

彼女が悪い方に空気を読んで、確かにそれくらいぶりだろうか。メールこそしていたものの、こうやってきちんと姿を見せたのは久しぶりな気がする。

「千草もって聞いてさ。大丈夫かなって」

ああ、心配してきてくれたんだ。やっぱり仲良いんだな、ウチの女性陣は。屈託のない久那と元気なあゆみちゃん、落ち着いた夏木さんはでこぼこな感じだけど、それが良いのかもしれない。

「大丈夫ですよ。それより、久那さんは大丈夫ですか? サッカーできなくてストレス溜まってません?」

昨日折られたばかりだというのに、相手の心配なんてこの人もタフだな。自分だけが被害に合ってるわけじゃないと知っているからだろうか。案外もう受け止めているのかもしれない。

「うん、まあ平気。ちゃんと足の筋トレもやってるし、牛乳も飲んで、なるべく太陽を浴びてるから! 何? 光合成ってやつ?」

ああ、なんか良いな。この馬鹿な感じ。やっぱり久那って感じがする。

「あはは、先輩。人間は光合成できんですよ〜」

「え? そうなの? 正志にどうやったら骨ができるか聞いたらそう教わったんだけど」

「まあ、久那さんだったら、確かに光合成できそうですけど」

夏木さんが、ぼそっ、と冗談を言う。

「でしょ〜? 真面目に日光を全身に浴びれるように、屋上とか行くもん、私!」

それを真面目に受け取る久那。

うん、これぞ探偵部って感じがする。夏木さんも被害にあって、逆に地が固まったのかもしれないな。嫌な固まり方だけどさ。もう少しで元通りだ。

あとはこれに正志が居れば完璧なのに。

アイツはどこに行っているのだろう?

「そういえば、久那は正志に聞いたって言ったけど、アイツ今何をしてるの?」

「さあ? 何か予習とか復習しているって言うんだけど、絶対嘘よね」

だろうな。ということは、誰も知らないってことか。でも、もしかしたらそれもあるかもな。自分の成績を上げて犯人に襲われようとしているのかもしれないし。

「あの、玖類さん、ちょっと良いですか?」

夏木さんは椅子を立ち、廊下へと向かう。なんだろう?

廊下を二人で歩く。彼女の腕が固定されていて、骨折とかしたことない俺は、実に歩き辛そうに思える。

「本当に分からないですか?」

コンコン、と廊下を蹴るのと同じくらいの音で、彼女は呟いたもんだから、思わず聞き逃しそうになる。

「何がです?」

「本当に、僧正さんが何をやってるか分かりませんか?」

「分かりませんけど、もしかしたら成績を上げて自分を襲わせようとしているのかもしれないと思ってます」

「いいえ。そんなことしなくても彼は十分に襲われる資格があります。いやらしい響きですけど」

こんな時にそんなボケはいらないと思うんだけど、それは置いといて。まあ確かにそうだ。夏木さんと同じくらいの成績なんだから、本当に予習復習をしているはずがないか。

「僧正さんは私達と同じ事を、一人でやろうとしているのですよ」

俺たちと同じ事を、一人で。それはつまり。

「犯人を一人で捕まえようとしているってことですか?」

彼女は静かに頷く。その彼女の確信に満ちた仕草が、それを否定することを躊躇わせる。それに、それを聞いたらもう正志はそう動いているようにしか思えなくなってしまった。確かにアイツならそう動いているだろう。幼馴染の俺が、何故それに気付かなかったのだろう? 自分のことしか見えていなかったからだろうか。

「そして、襲われる可能性があるからこそ、あえて一人なんだと思います」

俺たちを危険に巻き込まず、更に自分を囮に、か。アイツらしい。

「じゃあ、早く合流しないと」

「それをさせる方でしょうか?」

それは、させないだろうな、意地でも。

「私達ができるのは、彼が自分を囮に犯人と対面する前に、犯人を特定することです」

そうすれば、正志が危険な目に合わずに済むのか。

そして、この事件は止まるのか。

「でもさすがですね、夏木さん。俺なんかよりずっと正志のこと分かってる」

「そんなことありません。私、昼に彼と少し話したから知っているだけなんです」

「最近つかまらないのに、よく捕まえましたね」

「いえ、むしろ捕まったんです、私のクラスに彼が呼びに来てですね」

それ、絶対に妬む声が上がっただろうな。

「私の腕が折られたのを心配してくれました。そして、その際に情報を聞かれまして」

なるほど。その時に調べていると分かったのか。

「もしかしたら、ですけど。彼はもう一歩の所まで来ているのかもしれません」

「え、犯人を特定するってことです?」

彼女は頷いた。

「私の状況を聞いて、やっぱりか、と呟かれましたから。私達より確実に何か別の法則性を見出しているのでしょう」

俺達はとりあえず、折角部室を出たのだからと、中庭までジュースを買いに行くことにした。

そして、そこのベンチでできれば顔をあわせたくない奴が居た。

「よお、彼女同伴とはお前も隅に置けないな」

同じクラスの谷崎徹だ。

前のこともあるから、できるだけ無視したいんだけど、そんなことすれば黙ってないだろう。適当にやり過ごさないと。面倒くさい。

「夏木さんは彼女じゃないよ。同じ部員なだけで」

「へえ、そうかい。そういえばお前、探偵部だったよな?」

「うん、そうだけど、どうかしたの?」

「お前達、この腕折り魔の事件、どうにかしてくれよ、警備員が増えすぎて邪魔なんだよ。お前等探偵なんだろ?」

にやにやしながら言う谷崎。コイツは俺の後ろに居る夏木さんを見てそんな発言をしているのだろうか? 歯が擦れる音がした。

「つっても、その探偵部がやられてたら世話ないな。大したことねえのなお前等も」

「おい、冗談にも程があるぞ」

コイツの頬に拳を入れれば、どんなに気持ちが良いだろう。握った拳が痛い。

「落ち着けよ玖類。俺はお前等に伝言を頼まれてるだけだ」

伝言? 誰からだ。しかもこんな奴に伝言を頼むだなんて。

「僧正からだけど、おまじないを思い出せってさ」

おまじない? 隣の私さまのことか? 何でまたそんなことを。というか、何で正志がこんな奴に伝言を頼んだのだろう?

「あとよ、これは悪かったと思ってるんだが、この伝言を頼まれたのは三日前なんだ」

「なんだってこんなに遅く?」

「お前とあんなことした後で声かけ辛くてよ。しかも最近までお前近づき辛かったし」

まあ、そうだろうな。俺が探偵部がバラバラになってしまって、どうしようかと思っていた時だから。

「で、それとは別によ。探偵部を見張っててくれて頼まれてたんだ」

何でまた。どういうことだろう。

「えっと、それはつまり」

夏木さんが何か言いかけて、谷崎が頷く。

「ああ、お前等を守れって意味だったんだろうな」

谷崎はバツが悪そうに頬を指で掻いた。

「そして、夏木が襲われただろ? 俺がもっと早くお前に話してたら、そして、ちゃんと見張ってればもしかしたらってよ」

堂々とボディーガードできて、夏木さんの腕が折られることはなかったかもしれないと。そういうことなのか。

「その、悪かったな。こういうことになるなんて思わなくてよ」

そりゃあ、思わないだろう。谷崎も事情を説明されたわけじゃあなかっただろうし。

「いえ、谷崎さんのせいではありませんし、気に病まないでください」

夏木さんは微笑を浮かべる。目の前のコイツに敵意がなく、真面目に謝罪しているように見えるからだろう。

「玖類も悪かったな」

そういうと谷崎は手を伸ばす。これは握手か。

「良いよ別に。でもありがとう。こうして話してくれて」

「なあに、良いってことよ。それじゃあもう行くぜ? 僧正からは昨日までしかお前等を見張らなくて良いって言われてるけど、サービスしといてやるよ!」

照れくさそうに言う谷崎。それはつまりこれからボディーガードを影ながらにしてくれるということだろうか。

巨漢を揺らしながら去っていく谷崎。最後に何故か振り向いた。

「ああ、最後に、玖類。独り言の癖は治した方が良いぜ?」

おい待て。俺がいつそんな事を言った。

二人で彼の背中を見送った後、人数分のジュースを買う。ただ俺の横で夏木さんが難しい顔をしているのが気になった。

「どうかしたんですか?」

「さっきの話、聞かれましたよね?」

「おまじないですっけ?」

「いえ、それもですけど、谷崎さんの言葉です」

えっと、ツンデレな発言以外に何か特別なこと言ってたっけ?

俺が思い出すのに時間が掛かっているのを見かねて、夏木さんは四本目のお茶を取り出す。

「僧正さんは、昨日までしか見張りはいらないって」

ああ、そういえば去り際に言ってたな。

「それは逆説的に、昨日までに何かが起こると知っていたんではないでしょうか? だからこそ、彼に頼んだのでしょうし」

「あっ!」

その通りだ。正志は具体的に言えば昨日腕折りが起こる事を知ってたんだ。その被害が俺たちで無ければ見張らなくて良いってことは、俺たち以外にも起こりえたってこと。

それは、昨日のターゲットは夏木さん以外にもなりえたってこと。つまり成績上位者の腕が、昨日折られるということを正志は知ってたのか。

「本当に、正志は俺たちよりも先を行ってるみたいですね」

「そしてヒントを残したということは、彼は私達の行動もお見通しみたいですね」

しかも三日前に。アイツのことだ。久那の腕が折られた翌日からは動いていただろう。俺とアイツとの差は、実に一週間はあることになる。しかも性能が違うんだから追いつこうにも追いつけないわけで。

「何故ヒントを残したのでしょう?」

俺たちを危険に巻き込みたくないなら、何も情報を与えないはずなのに。

「実は私が腕を折られることすら、予想してたのかもしれません」

「いや、それは無いよ。だったらアイツのことだ。夏木さんを助けに来てるって」

「そう、ですね。考えすぎでしたね」

悪い方にね。

「きっと追いついてきてほしいんですよ。勝負と思いましょう」

夏木さんは少し微笑んで、そうですね、と言った。

とりあえず部室に戻るとしよう。どこに行くと言ってなかったから心配しているかもしれないし。

 

 

 

とりあえずさっき谷崎から聞いた情報を纏めないといけないという話になり、二人で部室に戻っていると、途中で須崎先生に会った。

「こんにちは、先生」

「おおう、玖類と夏木。大丈夫か? 腕は」

「はい。おかげさまで」

微笑を浮かべる夏木さん。

「そうか。っと、夏木、悪いが外してもらえるか? 玖類と話したいんだが」

何のことだろう? 彼女が居たらできない話って。

「分かりました。では、先に行ってますね」

と夏木さんは器用にペットボトルを抱えるように三つ俺から受け取ると、廊下を歩いていった。というか、アレじゃあ部室の扉を開けれないと思うんだけど。

「で、どうしたんです、すざっさん」

「いやな、昨日は悪かったな」

なるほど。改めて謝罪したかったのか。

「いやあ、傷つきましたよ。すざっさんに信じてもらえなくて」

「そりゃあ、お前。自分のクラスで、しかもわりかし優等生なお前がそんな問題を引き起こすとは思わなかったしな」

もちろん誤解だったわけで。先生も肩の荷が下りた気分だっただろう。

「悪かったな、玖類」

「いいですって。気にしてませんから」

とりあえず、それで用件は終わったみたいだ。中庭に警察っぽい人間が歩いているのが、職員室の前から見える。

「警備の人増えましたね」

「まあ、六人目だしな。そりゃあ警戒もするだろうさ。ま、そのおかげで俺もてんやわんやでね」

「どういうことです?」

聞き返す俺に、苦笑する須崎先生。どういう意味だろう。

「いやな、最近臨時のPTA集会が多いんだよ。俺、今期の司会でね。どうしても夜は拘束される」

「ああ、最近良くやってますね」

その会長との会話を盗み聞きしたのを思い出して、なんだか後ろめたくなってしまった。

「お宅の警備はどうなってるんですかーってな。まあ敷地内で犯行が行われればそうなるのもしょうがないけどな」

そりゃあ、そんな学校に通わせている保護者は気が気じゃないだろうな。

「真面目に休校も話題に上がってるからな。もしそうなったら覚悟しとけよ」

何を覚悟しないといけないのかはアレだけど、ああそういえば。

「うい、了解です。そういえば、すざっさんは隣の私さまって知ってます? 何でもPTAから生まれたおまじないらしいんですけど」

俺の言葉に驚いたのか、須崎先生は頷く。

「ああ、会長の森下さんが発案してな。保護者で子供の悩みを知る方法を話し合った際に、利用してみるのも良いかもしれないって話でな」

やっぱりあゆみちゃんの推理は合ってたんだ。確かにこのおまじないは子供の悩みを知る為に作られていた。

「まあ、このおまじないは俺たちが学生時代に流行ったやつなんだけどな」

へえ。つまりおまじないを再利用(リサイクル)したってわけか。面白い。

「実は俺も、すざっさんに謝らないとなんですけど、昨日の夜に、すざっさんとその会長さんの話してるのを偶々聞いちゃったんですよね」

俺の言葉に、驚く須崎先生。

「まあ、内緒話をしてたわけじゃないから別に構わないけどな」

「で、その会長。森下結さんの母親ですよね? 妙に親しそうだったのは、何かあったんです?」

にやにやしながら聞いてみる。こういうのは下品を装った方が話しやすいだろうし。

「ああ、まあな。昔付き合ってたことがあったんだよ。昔な」

とまあ、意外な過去が聞けてしまった。

「へえ。すざっさんも青春してたんですね」

「うっせー、放っとけ」

苦笑する須崎先生。このノリが生徒受けする要因だろう。失礼だけどあんまり格好良くないというのに、女子生徒から結構評判が良いのはどことなく納得できる。

「でも、何だって別れちゃったんです?」

聞いちゃあいけないことのような気もしたけど、ノリで聞いてしまった。やはりそれは話し辛いことらしく、一瞬言い淀む須崎先生。

「玖類は、ナルコレプシー、って知ってるか?」

なるこれぷしー? 何だそれ。デンプシーロールなら知ってるけど、そんなお洒落な名前知らない。

俺が首を横に振ると、説明してくれた。

ナルコレプシーとは、突然に自分の意図とは関係なく眠ってしまう、眠り病と呼ばれる症状なんだそうだ。自分では制御できず唐突に眠ってしまうという病気らしい。しかも治療の手立てがなく、それと付き合っていくしかないのだという。

「森下さんはな、そのナルコレプシーを患っててな。それに影響され(にく)い生き方をする為に、引っ越されたんだよ」

つまり、それが直接的な原因なのか。治す手立てが無いということは、今でも森下さんの母親は突然に眠ってしまうことがあるのだろうか? 確かにそれは、生き難いと思う。運転中とかに眠ってしまったら事故を起こすだろうから、免許も取れないだろうし。事情を知らなければ居眠りに勘違いされてしまうだろうし。それにしても

「すいません、何かへんなことを聞いてしまって」

本当だよと、須崎先生は笑ってくれた。もう割り切っているのだろうな。

「にしても、お前探偵部なんだろ? 情報は共有してないのか?」

「どういうことですか?」

「同じようなことを僧正も聞きに来てな。お(まじな)いの出所とか」

正志が? ああ、確か小島さんの時に有耶無耶が気持ち悪いと、おまじないの出所を聞きに行ったんだっけ。

とりあえず、適当に返事をして夏木さんを待たせてるのでと言うと、彼女の名前が効いたのか、先生もすぐに解放してくれた。

とりあえず今聞いた情報をみんなと部室で共有しよう。

俺はペットボトルを手で転がしながら部室へと向かった。

 

「玖類さん、頑張っているみたいですね、僧正さん」

俺の隣で森下が呟いた。

「そうだな。にしても、お前の趣味は本当に盗み聞きなのか?」

俺と森下は、偶々(たまたま)下の階で話している玖類と須崎のことを確認して廊下を歩く。妙にそわそわしている辺り、何を話していたのか聞きたかったのかもしれない。

「ふふ、それ玖類君にも聞かれましたわ。あえて黙秘権を使わせてもらいますけど」

「そうかい。それじゃ、部室に向かおうかね」

「そうですね。歓迎しますわ」

「誰も居ないのか?」

「ふふ、昼間から天文学部が何をするんですか? うちは夜部活しかみんな集まりません」

「なるほどな。っていうか、お前とすざっさん以外に部員居るのか?」

「二人ですけど、居ますよ」

隣で森下が苦笑する。

俺が図書館で調べ物をしていると、森下から付き合ってほしいと声を掛けられた。

そして、ここでは話せないからと天文学部の部室へ向かう途中に、優司と須崎の会話が耳に入り、なんとなしに眺めた後、天文学部に向かう。

部室は、相変わらず星座表やらが張り出され、望遠鏡が三つ立っているだけで、後は机と椅子だけの簡素な部屋だ。にしても、三人しか部員が居ないのに三つ望遠鏡があるなんて贅沢だ。一つ譲ってもらえないだろうか?

「で、話ってなんだ?」

「僧正さん。この腕折り魔の事件を、追ってるんですよね?」

へえ。探偵部(アイツら)には知られていると思ってたけど、まさか部外者のコイツも感づいているとはな。結構鋭いのかもしれない。

「だとしたら?」

「どこまで分かっているんです?」

何が知りたいんだ? まあ、むやみにカードを晒すのも馬鹿らしい。

「守秘義務だ」

「ふふ、僧正さんも意外に余裕ないんですね。依頼に行った時とは大違い」

「仲間の腕が折られて安穏としている方が可笑しいだろ」

「それもそうですね。失礼しました」

「話がそれだけだったら、もう行くが?」

犯人を特定するのに、もう一歩という所なのだ。

「いえ、本題はこれからです。よろしければ私と取引しませんか?」

突然に何を言い出すのだろう、コイツは。

「どういうことだ?」

「私は貴方が知らない腕折魔についての情報を知っています。代わりにですが貴方は私のお願いを聞いていただきたいのですが」

驚いた。こいつは俺が知らない情報を本当に持っているのだろうか? つまり、俺より深い真相をコイツは知っているというのだろうか? いや、深さはともかく、今は情報がほしいのも確か。だが。

「お願いとは?」

「そこからもう取引ですわ。まずは引き受けてくれるかどうか、それからです」

あくまで主導権を譲らないのか。

「俺が知っている内容だったら、一方的に俺の損だろ。そんなもの飲めないな。まずはそっちもカードを提示してもらわないと話にならない」

「だからこそ、最初の質問に戻ります。貴方はどこまで知ってますの?」

なるほど。そういうことか。だがそれでも情報を一方的に聞き出されて既に知っていたみたいとでも言われたら終りだ。

「ならせめて情報の種類くらい教えろ。でないとこの話は無しだ。お前も俺にしか出来ないことを頼む為に持ちかけているんだろう。俺の機嫌をあまり損ねさせるな」

「ふふ、高圧的ですね。貴方こそが探偵部の部長だっていう玖類さんの言うことも頷けます。確かに私には貴方が必要ですし、ここ辺りが塩ですね」

ようやくこの回りくどい話が終わった。お互いに最初からこの辺りに話は着水するだろうと分かってた故のやり取りだが、単刀直入に言う夏木や倉本とは大違いだ。優司が苦手なのも分かる気がする。

「情報の種類は、事件を強制的に終焉させる方法です」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味です」

つまり、森下は犯人を知っているということか。

「良いだろう。その話乗ろう」

「それじゃあ、約束どおり。貴方はどこまで知ってるのです?」

コイツが本当に犯人を知っているのなら、これから行われるのは答え合わせに近いものになるのだろう。

「犯人は成績上位者を、具体的に言えば一桁から二十位の付近の人間を狙っている。犯行は夜間。その際に必ず利き腕を骨折させる」

森下は頷く。その程度は探偵部(アイツら)も行き着いているだろう。

「更に、犯行は必ずPTA集会が行われる日に行われる(、、、、、、、、、、、、、、、、)。一連の事件のせいで、一気に被害者数が伸びたのはそのせいだ」

「犯人の服装は全身真っ黒。更に身長は約一六○。前記の内容を示唆した上で、成績関係で悩んでいると思われる子を持つ親で身長がそれくらいの人物を、今ピックアップしてるところだ」

俺がそれを言い終わると、森下は息を呑み、拍手をしてきた。

「さすがですね。まだ推測の域を出ていない部分もあるでしょうけど、それを補って余りある視察です。これでまだ一週間だというのですから驚愕に値しますわ」

苦笑する。俺にしては遅すぎると思っているくらいだ。普段なら、探偵部で活動しているときは、もっと早くこの深度に辿りつけている自信がある。

「情報は被ってないみたいだな」

頷く森下。黒い絹のような髪が左右に流れる。

「で、お前の要求は?」

その言葉に、彼女は一拍置いて。

「私を、助けていただきたいのです」

そう言った。

確かに、コイツも腕を折られる条件に当てはまるが。コイツは犯人を知っている、もしくは近い位置に居るんだろう。それでも俺に助けを求めるということはどういうことだ。それは自分が確実に襲われるということなのだろうか。

「もっと具体的に話してくれ」

「私は、自身の骨を折られる事を心配しているわけではありません」

だろうな。

「ただ、私は別の理由で犯人をやり込めないといけないのです」

やり込める。捕まえると言わなかったな。コイツは無駄に言葉を重視する所がある。そのままの意味だとしたら、面識があるようにも取れるが。

「分かった。お前と俺の追っているものが同一ならば、その話飲もう」

「本当ですか? ああ、良かった。貴方が自力で解決すると言われていたら、私途方に暮れていましたわ」

安心したように胸を撫で下ろす森下。こういう所は美人だ。

「ああ。それで、お前の持ってる情報とは?」

「大変言い難いのですが」

さっきまであんなに迂遠だった癖に、いつまでたってもその先を言おうとしない森下。一体どうしたというのだろう。

俺が先を促すように咳払いをすると、彼女はようやく覚悟を決めたようだ。

そして恥ずかしそうにした後に、森下は自分のお腹に手を当てる。

 

「私、妊娠しているのです」

 

そう笑った。

 

その日の夜。俺が全てを悟り、決行までの時間を待っていると突然携帯の着信音が鳴った。相手は、玖類優司。

「もしもし、優司か」

『あ、正志、久しぶり、今良いかな?』

最近避けてきたからか、いつも以上に余所余所しい。久々に聞く友人の声に、俺は思わず苦笑してしまった。

「ああ、良いぞ。どうかしたか?」

『うん、ちょっと長引きそうだから、そっち行っても良い?』

約束の時間まで後二時間。まあ、大丈夫だろう。

「ああ、構わない。十時から約束があるから、来るなら急いでくれ」

その二分後。優司も部屋に居たのか、すぐにノック音が聞える。

ドアを開ければ久々に直視する、友人の姿があった。

同居人には既に退出してもらっている。気兼ねなく優司を招いた。

「正志、何で僕がここに来たか分かる?」

「さっぱり分からないな。勉強でも教えてもらいに来たのか?」

「まさか。正志に頼むくらいなら夏木さんに教わるよ」

こういうやり取りは久々で、またも思わず苦笑してしまう。

「じゃあ、どうしたんだ?」

「犯人が分かったんだ、正志」

やっぱりか。そうだろうと思ってはいたが、よりによって今日か。ヒントを出しすぎたかもしれないな。探偵部(コイツら)が本気で取り組めば、俺が居なくってもこの程度の事件なんてすぐに分かるんだ。特に今回はトリックなんて無い、単純な構造な分、倉本が一番得意にしている分野だしな。そう、特別なことは何も無いんだ。ただあるのは、勘違いだけ。俺たちが居なくても、あと数日もすれば警察が特定するだろうし、もし見つからなかったとしても、どうせ別の要因で発覚してしまう。

そんな脆い構造を持っているのが、今回の事件だ。

「そうか。聞かせてくれるか?」

「その様子だと、正志も行き着いているんだね」

「ああ、まあな。まだ少し不明瞭な部分もあるが、真理には違いないという段階だ」

「そっか。僕もだよ」

お互いにまだ若干の余白があるものの、犯人は特定できているようだな。

「じゃあ、聞かせてもらえるか? その犯人とやらを」

まだ時間はあるのだ。自分の解答と俺の好きな奴等が導き出した解答を照らし合わせるもの一興だろう。

/【舞祭学園探偵部からの挑戦状】

 

助手の夏木です。この作品を直接書いていない私が毎回のように、このページを書くのはおこがましい話だとは分かっていますが、お約束なのでそこはご了承ください(私はこの手の作者の主張的ページが大好きなのです)。

さて今回の事件ですが、ここまでの内容で全て真相を看破することが可能となっています(でなければ挑戦状を送ることはできませんし)。もしもこの挑戦を受けられるのであれば、今回の事件に対する確固たるヴィジョンを携えた上で続きをお読みください。もしもそれがまだ無い方は、どうぞ最初からお読みになられることをお勧めします。

もちろん、このような遊びを嫌う方もいらっしゃるでしょうから、そのような方はそのまま次のページをめくられて結構です。このページには特に面白いことは書いてありませんので。

さて、この事件ですが僧正さんが言っていた通り、トリック等はありません。数多にある密室トリック(掛金を使うようなものや)や、遠隔操作トリック(釣り糸やピアノ線、果ては赤外線など)を用いるものはありません。実にシンプルなものとなっております。

この事件を推理するに当たって大事なことは、倉本さんがやっていたような方法での推理です。ただし、疑うのではなく、これがこうならばこうなるだろう、という思考の連鎖とでも申しましょか。腕を折るメリットとは? 的な考え方ですね。

多くの読者の方は、あらかた犯人の目星が付いていると思います。作者の玖類さんもそれをあからさまに書いているので犯人特定自体は問題ないと思います。

私達からの挑戦とは具体的に言えば、犯人の犯行に至る動機の方を重視しています。

それでは最後に開示されている情報を列挙してこの駄文を締めたいと思います。

貴方様の推理の手助けになれば幸いです。

 

 

一、犯人は成績上位者の腕を折る。

二、その犯行は夜間、PTA集会が行われた日に行われる。

三、森下結の母親はナルコレプシーを患っている。

四、森下結は妊娠をしている。

五、隣の私さまというおまじないは、子供の悩みを知る為に作られた。

六、須崎と森下の母は過去に付き合い、別れた経験を持つ。

 

 

2―D 探偵部助手 夏木 千草

 

優司の言う犯人と、俺の考えているそれは同じものだった。やはり探偵部(こいつら)は行き着いたようだ。それは俺が居なくてもこの部の役割は成立するのだという一抹の寂しさと嬉しさ。そして、俺自身が望んでいた照らし合わせだ。

一人で動く場合、どうしても客観的思考に限界がある。もしも思考が一方的に陥ってしまった場合、それを抜け出し確認することは難しい。

今回の場合は一人で動かざるを得なかったので、一番怖かったのがそれだ。

故に、俺というキャラを知っている人間からすれば気弱だと一笑されてしまうかもしれないが、俺はどうしても裏づけが。推理を肯定してくれる存在がほしかった。

しかし、そのようなことができるのは俺が離れた探偵部しかなく、仕方なくこういう回りくどいことをしてしまった。

夏木の骨が折られたのだって、俺のせいだと言っても過言ではないのだ。

だからこそ、罪滅ぼしというわけではないが、ここからは探偵役である俺の一人舞台だ。もう一人の探偵である倉本には任せられないし、任せるわけにはいかない。何より今から起こる非常識な事に、彼女は耐えられないだろう。犯人の指摘こそできても、追求は苦手な彼女には。

「どう? 正志」

「ああ、俺とまったく一緒の答えだ」

俺の言葉に安堵したのだろう、優司は笑いながら大きく息を吐いた。

でも、実は俺も目の前の優司と同じ気持ちだ。答えが一緒であることで、自身の考えの正しさを知り、最後の最後まで不明瞭だった動機の部分を、俺の捜査に引っかからなかった部分を、優司から教えてもらうことができた。これで完璧だ。

あとは、森下を助ける約束を果たすだけ。

「あえて正志は――」

優司が何か言いかけて、それをノックの音に阻まれた。時計を見れば約束の時間。

「悪いな優司。席を外してもらって良いか?」

何かを言いかけるようにした優司だったが、それを飲み込んでドアを開けた。

「あら、玖類さん?」

「こんばんは、森下さん。俺行くからごゆっくり」

優司に入れ替わるように、アイツの背後を見ているのだろう、顔を廊下に向けたまま森下結が入ってきた。

「お邪魔でした?」

「構わないさ。単に答え合わせをしていただけだ」

「つまり、彼も今回の答えに行き着いた、ということですか?」

頷く。それに感心したのか、ほう、と森下は息を吐いた。

「それで、来てるのか?」

俺の質問に森下は振り返り、重々しく頷いた。

「はい。既に下の階の奥。応接室で待っていると思います」

さてそれじゃあ、全てを終わらせに行くとしようか。

 

 

 

「どういうことですか? 娘が妊娠しているだなんて、この学園はどのような管理をしてますの!?」

甲高い声が廊下まで響く。

「誠に申し訳ございません。今当事者に事実確認をしておりますので」

「事実確認ですって!? そんなもの必要ありません! 事実、娘は妊娠しているのですよ!」

「落ち着いてください、森下さん!」

「これが落ち着いていられると思いますか!?」

対応しているのは校長のカーネルのようだ。どこかのフライドチキン屋の店頭に立っている老人にそっくりな為、生徒達や本人さえもカーネルと呼び、名乗っているほどだ。まったく、こんな時間まで可哀想だな。

それじゃあ、うちの顧問(こうちょう)を助けてやらないとな。じゃないと来期から部が無くなっちまうかもしれない。

俺は苦笑しながら後ろを見る。森下は一度だけ大きく頷くのを合図に、俺は中の怒声に負けないくらいに大きくノックをした。

静まる応接間。そしてすぐに扉はスライドさせられる。受け答えも無くすぐに開けられたのは、中の人間がこの場を逃げたがっているからだろう。案の定、カーネルが生徒である俺の為に扉を開けてくれる格好になった。

「なっ、僧正君! どうしてここに? もう消灯時間だろう!」

一瞬呆気に取られた後すぐに、教職者としての発言ができる辺りさすがというべきなのだが、さっきまで平謝りをしていたのを知っているだけに素直に感動できない。

「うーす、カーネル。ここは任せとけって」

探偵部は校長の弱みを握って顧問にしているので、あまり大きな態度を取らないのだが、さすがに今回は違う様子、いやいや、と言いながら押し返してくる。

「さっきから何をしてますの!? 何でこんな時間まで生徒が歩いてるんですか! このような非常識さがこのような事を起こすんじゃありませんこと!?」

「へえ、さすがPTA会長は言うことが違いますね、いやーさすがさすが! 自分が非常識だということに全く気付いていないようだ」

カーネルを押しのけて応接間に入っていく。隣ではカーネルがこの世の終りのような顔をしていた。まったく、救世主様が来てやったというのに。更に横目で盗み見るとカーネルは森下さんを見て、更に顎が落ちんばかりに驚愕している。

そりゃあそうだろう。さっきまで散々、娘は、娘が、娘を! と連呼されていた娘が目の前に居るのだから。

「なっ、何ですか! 今大事な話をしているんです、部外者が入って良い所じゃありませんよ!」

「何を言ってるんですか、俺は貴方の娘さんまで連れてきてあげたんだ。感謝こそされても文句を言われるのは筋違いだ」

俺の言葉の後に応接室に入ってきた娘の姿を確認して目の前の、森下結の母親、森下(もりした)陽子(ようこ)は一瞬だけ、呼吸を忘れたようになった。

「結、貴女は来なくて良いと言ったでしょ!」

「それは違う。彼女はこの事件に関わりのある人間、居なくてどうするんです」

「それを言うならば君こそ関係の無い人間でしょう! さっさと出て行きなさい!」

 

 

「何を言う! 探偵は事件を終わらせる為に居るのだ! 関係大有りだ!」

 

 

俺の言葉に、場が一瞬凍るようになった。

シン、という音が聞えるようになって初めて、森下の母陽子は、な、と漏らした。

「探偵? 貴方が? 馬鹿らしい! ごっこ遊びとは違うんですよ!」

「はっ、そんな常識に縛られるからこういうことをして、こういうことになる」

「ちょっと、何を言ってるの? 校長、早くこの子を外に出しなさい!」

カーネルは困ったように俺を見る。さっきから入り口で固まりっぱなしだったからか、いきなり名前を呼ばれて狼狽していた。

「だから言ってるでしょう、探偵は全てを終わらせる為に事件に臨むのだと。校長、貴方がこの状況を打破したいなら、いつものように何もしなくて良い。オーケー?」

俺の静止の手に一瞬迷ったようだが、覚悟を決めたらしい。カーネルはその場を動こうとしなかった。過去に同じようなことをやられていて免疫が付いているのかもしれないと、思わず苦笑してしまう。

「何を言ってるんです! 何をしているんです! ええい、学園のトップがこれだからこんなことになるのでしょう! 教育委員会に直訴しますよ!」

「まったく、口を開けばすぐにそれだ。訴えるだぁ? うるせーんだよ! 少しは黙って俺の話を聴け!」

なっ、と口を開けて固まってしまう陽子。そりゃあそうだろう、一生徒にこんな乱暴な言葉を返されたことが無いのだろうから。

「いいですか。貴女のような人をモンスターペアレントというんですよ。世間ではね」

「ええ、存知ておりますとも! 何と言われようとも構いません、事実娘は妊娠したのです。責任は学校にあるのですから、こうなるのも当たり前でしょう!」

やっと俺と会話する気になったのか。陽子さんは俺に牙を剥く。

「何を言う! 責任は家庭だ!」

「話になりません! 校長、早くこの子を締め出して、須崎を出しなさい!」

「話にならないのはそっちの方だろう! 良いか? 学校とは社会の縮図だ。労働が勉学になっているだけで、他は何も変わらない。もしも娘が妊娠したというならば、それは自己の意思による投影だ! それを学校のせいにするなんてちゃんちゃら可笑しい! こういう思考をするように娘を育てたのはアンタだろう!」

「誑かしたのはそちらの教師、須崎でしょう!?」

「だが誑かされた方にも責任はある。それに、さっきから言ってるだろう。学校とは社会の縮図なんだ。男と女が一端(いっぱし)の自我を持って生活しているんだ。お互いがその気ならそういうことも有りうるさ」

「お互いが、その気――」

「貴女が知ってる須崎という人間は、娘を無理やり襲って孕ませるような男ですか?」

それを聞いて言い淀む陽子さん。

「学園なんて働いているのがほぼ未成年というだけでこれも一種の社会なのです。その気になれば結婚だってできる年齢なんですよ、女性も男性もね。そう。色々な人間が居るのですよ、社会と一緒でこの学園にも」

そう。例えば。

 

「例えば――貴女の様な腕折り魔もね」

 

 

 

「なっ――」

話が急に飛んだからだろう。まさかこのような場面でそんな更に不穏な単語を耳にするとは思っても居なかったのだろう。

「成績上位者の。言うならば娘の成績から上位者の腕を折るなんて、やりすぎですよ」

「い、意味が分かりません。校長。いい加減このような茶番を止して、須崎を出しなさい!」

母は話題のすり替えを拒むようだけど、それは無理だ。小説を読んでいる私ならこの後彼がどうやってやり込めていくかを知っている。

「何を動揺しているのです?」

「動揺など――」

「していないとでも言うのですか? そのような焦り方をして」

「あ、焦ってなど!」

「概念に囚われすぎですよ」

「概念に――」

「隣の私さまというお呪いを、ご存知でしょうか?」

「えっ、あ」

「ご存知ですよね? これは貴女が作ったものなのだから」

「え、ええ」

息もつかせぬ質問の殴打。しかもそれを自分で答えて息も付かせない。これこそが私の求めいていた探偵部最高峰の探偵。僧正正志の話術だ。

「このお呪いは自分自身に手紙を書く。その内容は自分の悩みだ。それは言うなればこうなれば、こうなってほしい。これから脱したいという願望と言った方が正しいでしょう。そのような側面を見せておくことで、このシステムは正しい意味でお呪いという側面を得る。これは貴女の学生時代に流行っていたものを改良して使っただけだ。ある日の議題で、子供の悩みを知るにはどうすれば良いのかという事で、これを使った提案をしましたね?」

「ええしました。我ながら――」

「ええ、これは確かに上手いと思います。事実これはこの学園で流行ったようだ。そして、このお呪いの側面上、自分の家に届けられた手紙を最初に見るのは親なはず。そこで親は子供の悩みを知ることになるのでしたよね?」

母は言葉を遮られ続け、ついには頷くことしかできなくなってしまった。論点がいつの間にか変わっていることなど。そして、対面しているのがまだ私と同じ歳の学生であることなど、忘れてしまったかのように。

「そして、ある日。子供の悩みを知る為のお呪いを、自分で体験することになる」

一瞬、この応接間の空気が張り詰めたのが分かった。ここからだ。

「これは俺の想像ですが、まさか自分の娘が悩んでいるとは気付かなかったのでしょう。少しショックを受けながら貴女は手紙を見たはずだ。ただし、その手紙には何も書かれていなかった。そうですね?」

「ええ。そのとお――」

「だからこそ貴女は悩むことになる。悩みを知るためのシステムが貴女を悩ませることになったなんて皮肉ですが、先ほどまで自分の娘が悩んでいるなんて露にも思わなかったのです。それなのに何かしらの悩みがあってそれが分からないともあれば、それを知って取り除いてあげたいと思うが親の心というものですね」

頷く母。そう、ここから全てが狂ってしまったのだ。

「今の貴女なら、真に娘さんが悩んでいたことが分かるはずだ」

「ええ。そうです。その通りです」

「娘さんが。結さんが悩んでいた事とは、天文学部の顧問である須崎先生との間に出来てしまった子供のことだった。彼女の真の悩みとは妊娠したという事だったのです。ですが、貴女は勘違いをした。いや、このようなこと想像もできないでしょうからね。勘違いしてしまうのは当たり前だ。妊娠してしまったことにより勉学に集中できなくなってしまった娘さんは当然のように成績が下がってしまう」

嗚咽が聞えてきた。見るまでもない、母のものだ。全てを悟ってしまった母は、それを隠していたのだ。そして、激昂が収まると自分がしてしまった罪に耐え切れなくなったのだろう。

 

「そして貴女は勘違いをする。娘の悩みは成績が落ちてきた事だと」

 

「ええ。ええ。その通りです」

「それからだ。娘の成績を上げるにはどうしたら良いかと考えるようになったのは。でも、随分直接的な行動をしましたね。塾に通わせるとかではなく」

「ただでさえ悩みを悩みとして表面化させれない娘から、部活を取り上げてしまうことはできなかったのです。ただでさえストレスが溜まっているでしょうし」

そう、まるで全てを悟っているかのように母は言った。

だからこのようなことになるのだ。

「なるほど。そういう事情もあったのでしょう。まあ、良い。そういう事にしておきましょう。そして、貴女は実に短絡的な結論に至るわけだ」

ああ、ああ、と呻く母。言ってほしくないのか。認めたくないのか。

 

「そうして貴女は、娘の成績を上げる為に、腕を折り始めるのだ」

 

「――めの為に、娘のため、」

「いい加減にしろ! 娘さんはこんなこと本当に望むと思うのですか!?」

望むはずも無い。自分のためとはいえ、人の腕を折るなんて、最低だ。

「言ったでしょ? 貴女は概念に囚われすぎですよ」

「それは――」

「言い換えるなら世間体だ。貴女はそれを重視するが故、それに囚われる事になる」

「どういう――」

「分かっている癖に。いい加減に認めたらどうですか? 貴女は概念の奴隷なのです」

「概念の、奴隷――」

「そう。娘の為に始めたこの犯罪だって、元を正せば自分の為だ」

「僧正君。それは言いすぎなのでは」

校長が母に要らぬ心配をしている。乗り込んできた母親を(しかもPTA会長を)この至高の探偵は奴隷と呼ぶのだ。そりゃあ、庇いたくもなるだろう。下手したら、いや、しなくてもこのままだと首が確実に飛ぶ。

「言い過ぎも何も、陽子さんだけでなく、僕や校長。そして結さんだって全員奴隷ですよ」

初めて彼に自分の名前を呼ばれて、一瞬胸が鳴った。

「リベラルアーツというものをご存知でしょうか? これは人間が奴隷から自由人になる為に必要な七つの教養の事で、古代ギリシアが発祥とされています。その内訳は文法、修辞学、論理学、数論、幾何学(きかがく)、天文学、音楽の七つです」

何となく分かるものや、完全に何を指すか分からないものまで、数多くの物が上げられた。

「文法学とは文字通り正しく言葉を使うことを学び、修辞学とは弁論や雄弁術。説得術などの演説などの仕方を学ぶ学問だ。まあ、今で言うプレゼンテーション技術を学ぶものだね。論理学もそのままの意味で思考の法則や繋がりなど、理論的な思考の仕方を学ぶものだと思って間違いない。数論もそのまま。数学的な学問だし、天文学だって今と大体一緒だ。音楽も今と同じようなもので、幾何学は聞き覚えがないかもしれないけど、これは主に図形を研究するものだと思っていれば良い」

実に簡単な説明がなされたわけだけど、この男はどこからこういう知識を得るのだろう? いや、もしかしたら夏木さんがソースなのかもしれない。

「さて、さっき言った七つ、分かるかもしれないけどこれは大体の学校で、しかも小学生から習う内容です。でもどうだい? その中の弁論学だけはよっぽどじゃないと習うことが無いし、触れたとしてもやはり専門的にやるわけじゃあないからどうしても学ぶ機会が少ないね。別に古代の考え方ではないけど、今の教育では、人間を真の意味で自由にできないんだよ。しかもこの中で異様に数学の比重が大きい辺り、これが分かってないままだと、ますます奴隷になったまま社会に送り出されることになる。僕だって日本の教育は素晴らしいと分かってはいるんだけどね。逆に素晴らしいからこそ、半端な知識の半端な自由人達がくだらないことをするんだ」

楽しそうに語る僧正さん。ただ、若干脱線してきているような。

「おっと、悪いね。推理する時の悪い癖が出た。ただ、何が言いたいのかと言えば、誰しもが奴隷なのだということだね。別に特別なことじゃないということだよ、校長」

突然名前を呼ばれたからだろう、一瞬体を震わせる校長。

彼の言葉は深すぎる。彼が人を奴隷だと言っても、それは彼の定義からすれば全ての人間が大抵そうなのだから、別にその人個人への悪口ではないという。それは詭弁のような気もするが、彼はそういう誤解と偏見の中で生きているのだろう。そしてこれからも。それは何だかとても可哀想な気がする。だからこそ探偵部なのだろう。きっと彼らが彼を分かってくれるのだ。なんだかそういうのは羨ましい。

「さて、別に奴隷であることは別に普通なことだ。陽子さん、貴女の世間へのしがらみだってそういう下らない奴隷達が作り上げたものに過ぎない。いい加減それから脱却してはどうですか?」

「君の言うことはもっともです。でも、娘は妊娠してしまった」

「それは娘さんが母親になるだけです。それは悪いことですか?」

「そ、それ自体は――」

「ちっとも悪いことじゃあない。貴女は未成年の娘が妊娠してしまったことに。その世間体の悪さに騒いでいるだけだ。よく考えてください。それは元来、祝福されるべき内容です」

「娘は――」

「他より一歩早く母親になるだけです。それだけなのですよ」

「私は――」

「世間体しか見えていない。相手は責任を取らないと言っていないのでしょう? それに縄文、弥生時代はこれが普通だったのです。元服だって今よりずっと早い」

またお得意の例えが始まった。

「太古の寿命は今の三分の一だ。この歳で妊娠するのは当たり前だったのです」

「でも、学校の管理のせいで――」

「学校は管理してくれる場所ではない! 筋違いです。ここは社会の投影だと言っているでしょう! ここで何か起きたのならば、それは本人の意思の投影だ!」

そう。私もこれは望んでやったことだ。何かを言われる筋合いは無い。

自然に自分のお腹に手が伸びた。

「陽子さん。貴女は娘が社会に出てもこのような場違いな事をするのですか? 娘の成績が悪いから相手の腕を折る? ふざけるな!」

彼が大きく息を吸い込んだと思った瞬間、バンと大きな音がした。

それは一人掛けの椅子を彼が蹴り倒した音だった。

これが、きっと今まで行き場を失っていた彼の、仲間への想いなのだろうか。

シン、と応接間に沈黙が鳴る。

「貴女がやったことは業績の良い会社を妬んで放火したようなもの」

静かに、静かに。

彼の言葉が空間に響く。

「概念に価値を見出す貴女は、結局概念に囚われ続けるのだ」

それを言い終わった彼はゆっくりと母に背を向け、私に苦笑してみせる。

「君の名前は?」

「僧正、正志です」

「良い名前ね。君は自由なのでしょうね」

「いや、僕だって奴隷ですよ」

ちっともそんなこと感じさせないそぶりで、彼は言う。

「音楽の成績は2ですからね」

彼のその言葉に思わず私と母は目が合い、苦笑してしまう。

「ふふ、君のような人と一緒になれたら、私は奴隷にならなかったかもしれないわね」

さっきまでの激昂がまるで嘘のよう。母は笑う。

「娘さんにも言われました」

そんなこと今言わなくても良いと思うのだけど。

それに母は更に笑う。こうしてあの大好きだった笑顔を見るのはいつぶりだろう。

「こういう所は親子なのね」

笑う母に私も思わず苦笑してしまった。