/承【希望の屈折】
「みんな。重大な話があるの」
久々に久那が昼部活(まあ放課後だけど)に参加したと思ったら、いきなりそんなことを言ってきた。彼女が真面目な顔をしているというのは、結構珍しい。
久那はポニーテイルを揺らしながら、全員を見渡す。
「どうしたとですか? 久那先輩」
あゆみちゃんはカップを両手に包みながら、至極真面目な態度で彼女の話を待つ。
俺達はなんとなく予想がついているので、またこの季節かあ、と内心思いながら、久那の話すのを待っている。こういうのは形式が大事だと思う。
「私サッカー部よね?」
頷くあゆみちゃん。それに合わせて蜂蜜色の髪が踊った。
「で、私レギュラーなんだけど、この学校が掲げる、思想? って言うの? 合ってる? なんだけど、文武両道じゃない?」
確実に両道出来てなさそうな喋り方で、久那は続ける。それをいかにも真面目な話ですという体裁で続けるもんだから、つい笑いそうになってしまう。
「そうですね。資格も沢山取らせますし。まあ、スポーツばやっとらん人は、少し縁遠か言葉な気もすっですけどね」
あゆみちゃんの言う通り、スポーツをやってる人間には、資格取得がほぼ強制されているけど、文科系な部活をやっている人間には、あまり両道を強制されていない感はあるよな。
「でしょ? で、今度中間じゃない?」
その言葉でようやく行き着いたのか、あゆみちゃんは途端に苦い顔になった。
いつもだったらすぐに真相に行き着くだろうに、下手に久那の体面的なものを考えた。いや、考慮してあげたせいで、すぐに察することが出来なかったんだろう。
来週から丁度、中間テストの期間になるのだ。
「私、その中間で一定の点数取らないと、練習禁止になっちゃうのよね」
あはは、と自虐的な笑いをする久那。この時期のお約束とはいえ、この表情は相変わらず味があるなあ。虚ろな目で口元だけを器用に笑うなんて、結構難しいと思うんだけど。
で、その味な表情を一瞬にして戻したと思ったら、机に両手をつけた。座ってないけど、ポーズだけは土下座に見えないことは無い。
「お願い、私に勉強を教えて!」
というわけで、俺達は予想していた通りの一連の反応を見終わって、それじゃあ、と鞄から勉強道具を取り出した。あゆみちゃんは、きょろきょろ、と見回して同じように教科書を取り出し始める。
というか、毎回のようにちゃんとテストで点数を収めないからこうなるのだ。
この学園は年間を通して、一定の点数を納めないと単位の取得はできない。それはどこの学校も一緒だろう。だが、この学園は資格さえ取れれば特に勉学の方は最低限で良いらしく、それ故に矛盾するようだが点数至上主義のような傾向がある。
どういう事かと言えば、いくら授業中の態度が悪かろうと、提出物を出さなかろうと、ノートを取っていなかろうと、テストの点数さえ良ければ、資格取得する事が前提だが、その学科の単位が取得できてしまうという、不思議なルールがある。
無論、良い成績を貰いたければその全てもこなす必要があるが、卒業さえ、進級さえできれば良いという人間も要るため、規定の点数さえ収めていれば、無事に次へと進むことができるというわけだ。
だが逆を返せば、ノートを取っていても、提出物をきちんと出しても、授業を真面目に受けていても、点数が悪ければそこで単位取得はできないというシビアさもある。
まあ、その規定となる点数はさほど高くなく、毎回四十点さえ取れれば進級できるわけだ。つまり、一年で六回あるテストで、二四○点取ることができれば、後は何をしてても良いということになる。授業中に資格取得の為の内職をしていようが構わないわけなのだ。
で、毎回この時期になると、貯めてきた赤点と残りの点数との比較をして絶望した久那が、俺達に助けを求めにくるのだった。
「で、今回のテストでどれくらい取れれば、お前はレギュラーのまま、サッカーが出来るんだ? というか、進級できるんだ?」
正志は呆れたように椅子を斜めに倒し、ゆらゆら、と久那に問いかける。コイツは教科書の類を常に教室の机に入れっぱなしにするヤツなので、机には何も無い。
正志の言葉に、久那は実に申し訳なさそうに、そして、とても言い辛そうに。
「えっと、平均八○点かな」
と、実にハードルの高いことを言ってくれた。
「はぁ? なんだ、お前! つまり、何だ? これまでの点数の合計、どれくらいなんだよ?」
ちなみに、今は夏休みが終わったばかりの九月。この学園は夏休み明けの一週間後に中間があるので、次が三回目のテスト。残りのテストを全部、赤点ギリの四○点で計算して一二○点だ。
今回が折り返しなので、今回と一学期二回の合計を足した数字が一二○点以上であれば良いはずだけど、次取らないといけない点数が八○って事は、これまで二回のテストはどっちも、二○点ってことか?
全員その計算に行き着いたのだろう。みんながみんな絶妙な顔をしている。
「なんと言いますか」
夏木さんが実に言い辛そうに、言葉を捜している。
「えっと、久那。酷い」
俺の言葉に、久那は机に伏してしまった。
「いや、優司の言う通りだろ。馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、酷すぎる」
正志の止めの一撃が入った。
うう、と久那が唸っている。
「最近こそ馬鹿がチャームポイントだという風潮だが、限度があるぞさすがに」
と、死体を更に切り刻むような発言。
「幼馴染として、恥ずかしいを通りこして、引くっつのはさすがに経験した事無いぞ」
火葬処理にも等しい正志のコンボで、久那は、うう、としか言わなくなっている。まるで壊れたプレイヤーみたいだ。
言っているヤツがなまじに正志なもんだから、久那は目に見えて弱っていく。自業自得とはいえ、さすがに可愛そうになってきた。
「正志、それくらいにしといてやんなよ。久那、死にそうだからさ」
もう呻き声さえ上げなくなった久那を庇う。とりあえず、今日の活動は試験対策の勉強ってことになった。
◇
全員でノートやらプリント、教科書を開きながら試験範囲を確認しあう。あゆみちゃんは一人一年生なので、英単語の書き取りをしていた。
「っと、こんなもんか。それじゃ久那、まずは国語からいこうか」
頷く久那。一応得意らしい国語から始めることになった。
夏木さんが問題を読み上げるので、俺、正志、久那の三人で、白紙に答えを書いていくことになる。相変わらず意味不明なことを提案する正志だった。
「問題です。【言わんと】を使って文章を作成してください」
夏木さんは言い終わると、ストップウォッチをスタートさせる。
言わんとか。えーっと、【僕は彼が言わんとする事が分からなかった。】っとこんなもんかな。
隣では二人とも書き終わったみたいだ。
「それじゃあ、俺から行くよ」
そう言って先ほどの文を読み上げる。
「使用例としては正解ですね」
夏木さんは微笑する。
さて、二人はどう書いたんだろう?
「それじゃあ、次は俺だな。久那先生はトリじゃないと」
意味が分からなかったが、考える前に正志は読み始めた。
「行くぞ。【いや、言わんとすることは分かるんだが、それはお前の為にどのようなメリットがあるんだ? そこだけが分からないんだが。ああそうだ。基本全面的にお前の意見は支持しているんだが、そこだけがどうも腑に落ちない。そもそも――」
「ストーップ! 正志何それ!? 何でそんなに長いの? え? しかも何これ、どういう場面なのさ?」
とりあえず思いつく限りの突っ込みを入れる。まったく意味が分からない。
「一応、言わんと、の使い方は正解なんですけど――」
夏木さんは実に困ったという顔をしている。そりゃあそうだ。
「おいおい、まだ解答の途中だぜ?」
「もう良いって。次、久那は?」
正志の悪ふざけはスルーして、とりあえず次へ。
「えっと。読むよ? 【イワンとアランは友達だ】」
オウ、ジーザス。なんてこった。コイツはヤヴェ。発想がそもそも違い過ぎていて、上手く言葉が出ない。
とりあえず、周囲を見る。俺と同じ感想を持っただろう人間に助けてもらおう。各自どんな反応をしているかと見渡せば、何故か正志は悔しそうにしており、夏木さんとあゆみちゃんは小声で何かを話している。静まり返っている教室に、彼女達の声が微かに響く。
「いや、個人的に有りだと思うとですけどね」
「そうですね。確かに穿った解釈です。ただこの場合、二人の関係はどんなものなんでしょうね?」
「先輩。そりゃあ、イワンが最初に来ているんですから」
「だとすると、この問題の解答としては、イワン×アラン、とすれば正解ですね」
「あは、と、が入っとらんけん、丸はもらえないですけどね」
「あら、私としたことが」
夏木さんとあゆみちゃんはそう言いながら苦笑し合う。
ああ、聞きたくなかった。この二人の会話はとても聞きたくなかった。
そもそも。と、を接続詞にしちゃったのかよー、とか。それ以前にイワンって誰だよー、とか突っ込むべきだろ?
何で真面目に有りか無しの話しているんだよ!
「え、イワン×アラン、ってすれば正解なの?」
同じように二人の会話を聞いていた久那が、意味分かっていないのだろう、真面目に会話に参加しにいった。もうカオス過ぎる。
「ああもう、久那、違う! それ不正解だからね! ほら、夏木さんもあゆみちゃんもちゃんと勉強しようよ! じゃないとまた久那が赤点取っちゃうって!」
赤点という単語に久那は過剰に反応し、夏木さんとあゆみちゃんも我に帰った。
「さすが久那だな。根本的に発想が違うぜ」
まあ、発想というより、使い方を知らないだけなんだけど。それでも、空欄にしたらいけないと思っている健気な頭が、こういう珍解答をたたき出してしまうのだ。
「というか、正志。これ大喜利じゃないからね」
俺の指摘に、えー、と明らかに不服そうな顔をする正志。何だってこんなやつが、こんなに成績優秀なんだろう。
とりあえず次の問題に移る。国語だと確実に正志がふざけると分かったので、英語の文章を訳すことにした。
夏木さんが同じように例文を出す。
「問題です。【No Smoking】を訳してください」
あれ? 何か問題が易し過ぎる気がする。サービス問題なのか?
俺の視線に気付いたの、夏木さんは微笑を浮かべながら首を振る。久那に自信を付けさせてあげる気なのかな?
とりあえず、俺とふざけなかった正志は、【禁煙】と書いて正解。問題の久那は。
「えっと、【横綱じゃない】」
と意味不明な事を言った。どうやら、【Smoking】を相撲の王様と連想してしまったのだろう。相撲の王様はチャンピョンで、つまり横綱だ。
うん、なんというか。さすがだ。こういうのを天才だとか評されるんだろうな。紙一重的な意味で。
そんなこんなで、とりあえず昼の部活は終わったのだった。
◇
夕食を食べ終わり、全員が私服に着替えてから夜部活が始まる。もちろん、内容はテスト勉強だった。
「違う、久那。月の表面は、でこぼこ、じゃなくてクレーターだから!」
相変わらず素で面白い解答を連発する久那。正志は勉強するのに飽きたらしく、俺と夏木さんで久那を教えている。隣ではあゆみちゃんは、暇そうな正志の相手をしながらも勉強している。
「そこは、水兵リーベ、僕の船です」
「何それ?」
「周期表の語呂合わせです。こうやって覚えると楽ですよ」
「へぇ、面白いね。続きは?」
「七曲がりシップスクラークか、ですね」
「え? どういう意味?」
久那。こういうのにはね、意味なんて求めちゃいけないんだよ。
夏木さんも困ったようにしている。
「ん? 夏木はそう教わったのか? 俺のとは少し違うな」
「いや、俺と正志は同じ学校だったじゃん。同じ覚え方だっただろ?」
「いいや、俺が教わったのは、こうだぞ?」
何故かそこだけ食いついてきた正志は、自分が習ったという覚えかたを披露する。
「H He Li Be――」
「うわー! こら、正志、ストップ! ストップ!」
いきなり何を言いだすんだ、コイツは!
夏木さんは少し興味あり気に、久那は恥ずかしそうに、あゆみちゃんは聞き取れなかったのか、きょとん、としている。
「僧正さん。さっきのは――」
「ああ、俺の中学のときに先生が一回だけ歌ってくれた歌でな。当時クラスの男全員で、これからの歌詞に出てくる下ネタを辞書やらネットやらで調べまくったもんさ」
正志は懐かしそうに、実にセクハラ染みた発言をする。
というか俺、そんなの聞いた事ないんだけど。正志のクラスだけに教えてくれたのか? あっちこっちのクラスで歌うわけにいかないだろうし。
「これからの歌詞ってことは、続き、あるんですか?」
「一応、全周期分あるぞ? いやあ、おかげで密かなブームになったよ。で、結果俺達のクラスの男は全員化学のテスト、飛びぬけて良かったらしい。これぞ、青春」
嫌な青春だ。要は性力を利用されただけな気もする。
そういえば、正志のクラスの担任が、化学を受け持っていたな。
「で、どうするんだ?」
どうするもなにも、何がだ?
「夏木が知っている至極普通だけど、意味が理解し難い語呂合わせと、俺の卑猥だが、確実に覚えられる語呂合わせ」
「え? ええ? どっちかしかないの!?」
久那は動揺しながらする問いに、正志は力強く頷く。
「無論だ。要はプライドを取るか、成績を取るかって話だな」
ええ、と動揺しまくる久那。片方はプライドを守れるかもしれないけど、いまいち意味が分からないもので、もう片方は屈辱的だが分かりやすい為に、確実に暗記することができるというもの。ただ、それで点数が取れたとして待っているのが、その手段で点数を取れてしまった自分への敗北感なのだった。
ただ彼女の場合は悠長な事を言っていられないという所もあるので、プライドを優先できないのだろう。
にしても、下ネタが大半を占めるだろうその語呂合わせを、異性から、しかも自分が好きな人から教えてもらうのって、どんな気分なんだろう? 久那に限っては、正志と付き合い長いから、幻滅するということはないだろうけど。
「さあ、どうする? なあに、もしお前がこの方法で点数が取れたとしても、俺達は何も思わないから安心しろ」
まあ、覚えられることにこした事は無いだろうけど。
久那が、うーうー、唸っているのを、夏木さんが中断させる。
「あの、私も興味あるので、できれば教えてくれませんか?」
さすがというべきなのかもしれないけど、恥ずかしくないのかな?
まあ、好奇心がうずくのは何となく分かるけどさ。
「ふむ。夏木は既に暗記してるだろうに。まあ、良い。ならこっちに」
正志と夏木さんは二人で廊下に歩いていく。二人の身長差は、どこか兄弟のようだ。
約二分後。
少しだけ顔が赤い夏木さんと、正志が部室に戻ってきた。
どう声を掛けて良いか分からないし、二人はお互いに無言なもんだから、更に声かけ辛い。
「どうだった? 千草」
久那は興味深そうに夏木さんに尋ねる。それに彼女は頷いた。
「確かに、覚えられそうというか。なんというか。男性上位というか――」
実に答え辛そうな感じだ。というか恥ずかしいのかもしれない。そうなるなら聞かなきゃ良いのに。
結局、コメントに困りますね、という言葉を返して、夏木さんは勉強に戻ってしまった。微妙に上の空な所を見ると、まだ正志の語呂合わせが頭から抜けきっていないんだろうな。というか、夏木さんがあの状態って事は俺一人で久那を教えるのか?
「うう、優司。どうしよう?」
「好きにすると良いと思うよ? 覚えれさえすれば、何だって良いんだから」
というか、覚えられないと点数が取れないという話。
俺の言葉に感化されたのか、久那は勢い良く椅子から立ち上がる。
「正志! それ、私にも教えて!」
「ふっ、プライドを捨てるか! まあ、勉強を教えてもらってる時点でそんなもの無いも同じか!」
てか、そう思っているならそう説得してくれれば良いのに。
いや、こいつのことだ、久那が悩むのを楽しんでいたのかもしれない。ただ、正志が勘違いしていることは、久那はプライドじゃなくて、体面で悩んでいたということだ。まあ、結果的には悩んでいたんだけど。
さっきと同じように、正志と久那は部室から出て行く。
「夏木せんぱ〜い。大丈夫とですか?」
あゆみちゃんに心配されている夏木さん。さっきから上の空過ぎる。
「夏木さん? そんなに恥ずかしかったなら聞かなきゃ良かったのに」
「え? あっ、何でしょう?」
さっきまで言葉が素通りしていたのか、やっと我に帰ったみたいだ。
「そんなに恥ずかしかったなら、聞かなきゃ良かったのに、と」
「あ、いえいえ。恥ずかしくて放心していたわけじゃなくてですね」
でも、さっきの一件から可笑しくなったと思うんだけど。
つうか、正志達遅いな。
「じゃあ、何で、ぼう、としとったとですか?」
まったくだ。
「えっとですね。私なりの語呂合わせを作ってたんです、お恥ずかしながら」
ああ、そういうことか。放心というより、考え事だったのか。って、どういう語呂合わせを作ろうとしていたんだろう、この人。既に覚えているというのに。
「うわぁ、どんなとば作りよるとですか?」
興味津々で会話に参加するあゆみちゃん。正志のを聞き逃して悔しいのかもしれない。ただ、説明していないのに周期表の語呂合わせだと察している辺り、鋭いというかなんていうか。
「聞きたいですか?」
うふふ、と笑う彼女。その笑顔は、可愛いというより、どちらかといえば邪だ。
「聞きたくないです」
大体ああいう顔をしているときの彼女は、BLだの、攻めだ、受けだ、と意味不明な会話しかしない。いや、意味はなんとなく分かってるんだけど、理解したくないというか、したら負けというか。彼女の近くにこの一年間居たせいで、自ずとそういう会話の内容が分かってしまうだけ悲しい。
「えー、聞きたかですよ」
そう、あゆみちゃんも微笑を浮かべている。無論、可愛いというより、煩悩全開な顔だ。彼女も夏木さんの同性の後輩ということで、すっかりそっちに染められてしまっていた。入部当初は少し影がある儚げな後輩だったのに、今ではこういう会話をとても元気にする子になってしまった。まあ、喜ばしいんだろうけど。何だかとても悲しい。
「いや、聞きたくないです」
「そうですか?」
そうなのです。俺がゆっくり頷くと、あゆみちゃんが、ちぇー、と拗ねたような口調で書き取りに戻った。
「情無いですねえ」
夏木さんは、どこかほんのり寂しそうにする。うーん、聞き流せば良いわけだし、言わせてあげればよかったかな?
そして、しばらく無言で勉強をする俺達。ノートに線を引く音だけが響く。
「さて、玖類さん? 聞きたくないですか?」
「いや、全然聞きたくないですねえ」
前言撤回。ちっとも諦めてなかった。
「あは、あのですね、水素のHがですね――」
「いや、振りとかじゃないんで、真面目に良いです」
「うー。あー、じゃあ、良いです。あゆみさんと一緒に休憩します」
そう言って結局二人で、わいわい、と喋り始めた。所々で、きゃー、だのと黄色い悲鳴が小さく上がる辺り、かなり夏木さんの語呂合わせは良い出来らしい。
というか、それを久那に教えれば良いのに。良い歳した男性教諭が作った卑猥だろう語呂合わせより、夏木さんが作ったやつのほうが、五十歩百歩だろうけど、まだ健全な気がする。
というか、あの二人遅いな。夏木さんと一緒に行った時は二分も掛かってなかったのに、今はその倍以上は掛かってる気がする。
思っていた矢先に、正志と久那が戻ってきた。ほんのりどころじゃなく、久那の顔は真面目に赤く、前に居る正志の背中を何度も叩いている。
「なんだよ、ってーな。教えろって言ったの、お前だろ?」
「だって、こんなのだとは思わなかったんだもん!」
「ちょっと、何があったのさ、二人とも」
とりあえず久那には落ち着くように、あゆみちゃんにミルクティーを淹れてもらう。
「で、どうしたのさ?」
飲んで少し落ち着いたのだろう。久那は大きく溜息を一回吐く。夏木さんとあゆみちゃんも席について全員で彼女の話を聞く格好だ。
「だって、千草が結構普通にしてたから大丈夫だろう、って思ったのに、まさかあんななんて」
そう言った矢先に思い出してしまったのか、久那は机にうつ伏せになってしまった。まったく、勉強どころじゃないな、今日は。
「まあ、確かに夏木さんは久那ほどじゃなかったみたいだよね。少し、何ていうの? 含羞んでたくらいで」
俺の言葉に、夏木さんは、じと、と俺の方を見る。いや、そんな目をされてもなあ。むしろ、逆セクハラされそうになったお返しというか。
「うん、だから大丈夫かと思ってたんだけど」
なるほどな。まあ、夏木さんはそういうのにある程度の耐性あるだろうしな。知識として知ってても全然不思議じゃないし。というか、今になってきて彼女が作った語呂合わせがどんなものなのか、悔しいけど気になってきた。
「もう、セクハラよ、セクハラ!」
久那は本格的に机にうつぶせになる。もうやる気がなくなったみたいだ。
気づけば机と自身の自重で、彼女のふくよかな膨らみが潰されていた。馬鹿は風邪を引かないからなのか、久那はもうすぐ秋だというのに薄着なもんだから、それが顕著に分かってしまい、正直目に毒だ。
「ほら、久那いつまでもだらけてないで勉強しないと。サッカーできなくなるよ」
とりあえず気付かないふりをして久那に呼びかける。幼馴染とはいえ、すっかり女性になってしまった久那に、不思議な後ろめたさを感じてしまった。
そんなこんなでぐだぐだとしながら、この一週間は過ぎていった。
◆
ボキッ
◆
今日で全科目のテストが終り、ようやく解放された気分になる。この解放感は滅多な事じゃあ味わえないよなあと思いながらも、テストが終わったからと気晴らしにどこかに出かけるという柄でもないし、そのまま部室へとやってきた。我ながら実に若者っぽくない。
「うーっす」
扉を開けてとりあえず挨拶してみたけど、部室には誰も居なかった。
やることもないしとりあえず、ろ過ポットに水道から水を入れて、珈琲メーカーにそれを注ぐ。粉末を入れてしばらく、水を吸い上げる音に耳を傾けていると。
「よお。相変わらず枯れてるな」
振り向けば、翔吾が立っていた。
「放っといてよ。翔吾も飲む?」
並々とポットに満たされた黒い液体を指差す。
「ああ、もらおうか」
彼はそういうと、席に着いた。
翔吾の前に珈琲の入ったカップを置きながら、俺は対面に座る。
「そういえば、久那が猛勉強したんだって? 結局どうなった?」
「まだ聞いてないけど、結構良かったんじゃないかな。最初こそ泣きそうになりながら夏木さんと勉強してたけど、最後辺りは対策のプリントもスラスラ解いてたし」
テスト終了一日目は生まれて初めて、自信持ってテスト終わったとも言ってたし。二日目にはテスト中、時間が少し余ったとも言ってたし。最終日の今日は、どうだっただろう?
「それじゃあ、結構期待できるな。まあ、久那は久那で真面目で素直だからな。真剣にやればできるタイプだろうに」
「まあ、普段からやらないからね。小さい頃から理解は早かったけど、体動かす方が好きだったタイプだしね。読書より鬼ごっこ、みたいな」
そんなことを言って、中学三年時を思い出した。
俺と正志がこの学園を志望すると聞いて、絶望的な成績だった久那は俺達と一緒に猛勉強したのだった。推薦で受けたことは受けたのだが、それに落ちてからの彼女は、凄まじいものがあった。
まあ、やればできる子なのだ。彼女も。ただ、入学してからはそれまでの内容を全て忘れてしまったかのように、スポーツ漬けの毎日だった辺り、久那らしい。
俺がそんな思い出に苦笑していると、扉が音を立てて開いた。
向こうからは久那と途中で会ったのだろう、あゆみちゃんが居た。
「はよー優司。正志と千草はまだ?」
「うん、まだだね。そういう久那はサッカー部に行かなくて良いの?」
「いや、行くけどこっちに顔を見せてこのまま行こうかなって」
とりあえず二人は部室に入ってきた。
「あれ? 誰かおったとですか?」
首を傾げるあゆみちゃん。
一瞬、久那の顔が曇る。
「あれ? うん、さっきまで三瀬がね」
いつのまにやら消えてるけど。俺が回想している時に逃げたのかもしれない。アイツも正志同様に落ち着きなく、一つの場所に居れない人種だからな。
「そういえば久那。テストどうだった?」
待ってましたと言わんばかりに、久那は満面の笑みを浮かべる。よっぽど聞いてほしかったのかもしれない。というか、この部室に寄ったのだって、それが目的だろうし。
「いやー、優司と千草には本当に感謝感謝よ。いつもだったら絶対にやらないけど、結構手ごたえあったから、お昼食べながら友達と自己採点してみたの!」
うわ、ものすごくにこにこしてる。というか、どんだけ自信あったんだよ。今日のお昼前のテストは、化学だったかな?
「そしたらなんと、八十二点よ!? すごくない? 私!」
「うわぁ、すごかです、久那先輩!」
あゆみちゃんのお世辞? に久那は胸を張っている。
うーん、久那にしては凄いのかもしれないけど、なんか素直にすごいと言えない点数だなあ。まあ、これで一応化学に関してはノルマクリアーなのか。今後のテストで赤さえ取らなければ、だけど。
「へえ。やるね、久那。月表面をでこぼこって書いてたのからすれば、すごい進歩だよ」
あれ、サービス問題だったのにね。内容中学のだし。
微妙に皮肉っぽい言い方をしてしまったのに、久那は、えへへ〜、と褒められていると感じてくれていた。こういう所は本当に可愛いと思う。身内贔屓だけど。
「だからさ。本当にありがとね! とりあえず遅刻しちゃうから行くけど、後の二人によろしくね!」
どうせ夜に顔を出すのに律儀というか。
久那はそういうと部室から出て行った。
「ばたばたでしたね、先輩」
まあ、お礼を言いに来ただけだし、もうサッカー部も始まってるだろうしなあ。
「そうだね。ま、テスト良かったみたいで安心だ」
「そうですねー」
二人で久那とは対照的に、のんびりとお茶を飲む。
「そういえば先輩達、遅かですね?」
そう言われてみればそうだ。夏木さんは図書館に寄ってから来ることもあるけど、こんなには遅くないし。正志だって性別問わず人気で引っ張りだこだけど、ここまで遅くなることはそんなに無いし。どこで油を売ってるんだか。
そんなこんなで、あゆみちゃんのテストの出来だとかを聞きながら、二人で珈琲を飲んでいると、ようやく夏木さんが部室にやってきた。
「遅れてしまってすいません」
「いや、別に強制参加じゃないし、遅刻とかも無いですから、そんな」
この人もいちいち律儀な人だ。
「どうかしたとですか?」
あゆみちゃんは興味深そうに尋ねる。こういうのは職業病なのだろうか? それともただの好奇心か? まあ、後者かな。二人は結構普段から仲良いみたいだし。
「ええ、友人がトラブルに巻き込まれたみたいなので、少し話していました」
トラブル、か。わざとなのかもだし、じゃないかもしれないけど、トラブルと濁した辺りに興味が湧いてしまった。こういうのは不謹慎なんだろうけど。
「トラブルです? ああ、珈琲で良かですか?」
こくん、と頷く夏木さん。どっちに頷いたんだろう? まあ、後者かな。
あゆみちゃんから専用のカップで受け取った彼女は、少し考える風な様子で俺達を見た。何だろう? カップに口を付けながら何を考えているんだ?
「えっと、ですね。夜、気をつけて帰りましょうね」
まあ、そりゃあ気をつけて帰るけども。突然すぎる。
「夜にトラブルですか?」
ああ、そう繋がるのか。少し考えれば分かるけど、それが自分よりも早い人に尊敬を抱いてしまう。
「ええ。私の友達がですね。誰かから腕を折られたみたいなんですよ」
そう、夏木さんは物騒な事を言った。
腕を折られる? 誰かからって、事故じゃなく事件じゃないか。
「折られたって、え?」
あゆみちゃんも同じように動揺している。どう反応すれば良いか分からない。
これは本当に悪意のある、事故じゃなく、事件だからだ。
「事故じゃないんですよね?」
一応確認を取る。彼女の言い方からしてそれは無いだろうけど、一応。何だかすがるような気持ちも混ざった質問。
「ええ、友人は確実に、誰か、から腕を折られたんだそうです」
誰か、を強調して、夏木さんはこの事件が本当に起こったのだということを告げる。
俺達に起きる事件とかなんて、せいぜい痴漢とか。学園内で言えばもっと穏やかで喧嘩とかカンニングとかで。
でも、その腕を折るという行為は、悪意に満ちすぎていて。なんだか、恐ろしい。
「折られたって、どこで折られたとですか?」
それは自分達に危害が及ぶような範囲で行われたのかという、あゆみちゃんの確認はもっともだ。夏木さんの友人には悪いと思うけど、自分達の生活圏内でないところで腕を折られたというならば安心できる。そこに近づかなければ良いのだから。
あゆみちゃんの質問に、彼女は実に答え辛そうに、カップを口に当てる。
「ガイシャは2―Aの小島 由美子。テスト勉強中に腹が減ったのでコンビニに行った所を、何者からか何かを腕に叩きつけられたらしい」
ガラッ、と正志が入ってきた。遅かったのはそれを調べていたのだろうか? 相変わらずこういうところ真面目に探偵っぽいのだが、どちらかといえばそれは警察の仕事では? と思ってしまう。
正志の情報に、夏木さんは頷く。つまり、小島さんの住んでいる付近ということか。
「ちなみに、小島はこの人工島、セカンドのマンションに家族と住んでいる。寮ではない」
無駄に調べてるな、こいつ。というか、由美子って名前に聞き覚えがあるんだけど、誰だっけ? ――ああ、おまじないを調べる際に聞き込みに行った、正志に気がある子の一人だ。夏木さんの友達だったのか。
「僧正さん、詳しいですね」
自分の友達のことを調べられて、気分が悪いのだろうか?
「まあ、本人に聞きに行っただけだ」
そりゃあ詳しいわな。彼女も沈んでいた所を正志が来たから、役得だと思ったかもしれないし。いや、さすがにそれはないか。
あまりに失礼な自分の思考に反省する。
「私は図書館で彼女と会う約束があったのですが、それがキャンセルになりまして、どうしたのかとメールしてみたら、そういうことだったので、お見舞いに行ったのですが、鉢合わせしなかったですね?」
「ああ、俺のほうが早かったんだろう。夏木より遅かったのは、ついでに現場も見てきたからだな」
行動力ありすぎるな、コイツ。
つまり、放課後になって夏木さんはメールを見てその事件を知ったわけだけど?
「正志は何でその子が事件に合ったって知ってるのさ?」
もしかしたら独自の情報網とか持ってるのかもしれない。こいつの交友関係は無駄に幅広いからな。
「いや、どうもおまじないの出所が消化不良でな。職員室に聞きに行ったんだ。そうしたら小耳に挟んでな」
盗み聞きの間違いじゃなければ良いんだけど。まあ、それにしても。腕を折られたか。物騒すぎる。
「まあ、学校の敷地外に一人で出るのは止めましょうって話だな、俺らは」
寮だからね、みんな。
そうして、各自気をつけるということで、その日の昼部活は恙無く流れていった。
◇
次の日。テスト明けで鈍った体を更生するという名目で、体育の授業は野球となった。マラソンじゃなくて本当に良かったと思う。
そんなわけで微妙に肌寒い空の下で、俺は草の上に体育座りで目の前の野球を見ていた。俺のAクラスとCクラスとは合同で体育をすることになっているので、それぞれのクラスの男子だけで野球をしている。
ちなみに、女子は女子で別に授業をしている。確かテニスだったか?
ああ、何か盛り上がっている。見れば正志がホームラン宣言していた。
「玖類さん」
後ろから綺麗な声が聞こえてくる。体を捻って振り返れば、森下さんが居た。そうか彼女のクラスか、Cは。
「ああ、こんにちは、森下さん」
特に喋る間柄じゃないので、他人行儀な感じはしょうがないと思う。
「こんにちは。ふふ、可笑しいですね、同い年なのに」
それが可笑しかったのか、彼女は綺麗に笑った。なんか綺麗なんだけど、あまり好きになれないというか。というか、まじまじと見たら魅入られちゃいそうで、とても見辛い。
「まあ、同い年ですけど対等じゃないですし。個人的には森下さんは尊敬できる気がしますので、どうしても敬語を使っちゃいますね。それに、あまり親しくないですし」
俺のその言葉に、一瞬面を食らったような顔をしたけど、次の瞬間には苦笑していた。それも様になっていて、やっぱり同い年には思えない。
「面白いですね、玖類さんは。僧正さんから聞いていた通りです」
正志が俺を面白いって? というか、彼女は正志とそんなことを話しているのか?
「隣、良いですか?」
む、それは何か嫌だなあ。一緒に居たく無いというか、居るのを見られたくないというか。
「まあ、汚いですけどどうぞ」
それに彼女は苦笑しながら、それでは失礼して、と本当に俺の隣に腰を掛けた。
前の方では正志が見事に三振に討ち取られていた。まあ、相手のピッチャーは野球部の岩永君だし、シンカーなんて投げられたら初見では無理だろう。
「女子、抜けちゃって良いんですか?」
「ええ。私は少し事情がありまして、体育を少しお休みさせてもらってます」
事情? ああ、聞くのは野暮か。さすがに。
「玖類さんは、何故参加なさらないので?」
「今日は相手のクラスが一人欠席でして、人数を合わせる為に、俺はベンチです。誰か怪我とかしたら代打に行きますけど、まあ無いでしょうね」
「あら、それは参加していることになるのでしょうか?」
「まあ、ならないでしょうね。それに俺、野球好きじゃないので」
何故ですか? と妙に突っ込んでくる彼女。腰を降ろすと長い髪が地面に着くからだろう。自分の肩に背負うような形で、束ねて前に垂らしている。
「そうですね。チーム競技じゃないですか、野球って。だからですかね。ミス一つで負けたりする。そのミスが重大であればあるほど、ミスした人の責任になる。そういうのが嫌なんですよ。たかが体育の授業だってのに、険悪になりたくないです」
実に我ながら後ろ向きな思考だと思う。だけどしょうがない。俺はそういう人間で、そういうミスをしやすくて、そういうミスのせいで何かを言われ、やられる確率が酷く高い。その度に正志に庇ってもらうのも、申し訳ない。
「なるほど。手堅いというか小心というか。達観しているようで、論理武装なだけというか。探偵部の皆さんは面白いですね。とても同い年だとは思えないです」
「いやいや、森下さんも十分同い年には見えないですよ。落ち着いてますし」
「そうでもないです。私は十分子供ですよ」
そう微笑する森下さん。そういう仕草や物の言いが大人びていると思うんだけど。
そうしてしばらく沈黙が流れる。お互いの空間には時折バットの快音が鳴るくらいだった。
「何故、探偵部を作ることになったんですか?」
沈黙に耐え切れなかったのか、森下さんは自然に切り出してきた。
「別に作ろうと思ったのは俺じゃなくて、俺はただ部長を押し付けられただけで、作ったのは正志です」
「あら、そうでしたか。でも、あの作品を書いているのは、玖類さんですよね?」
あの作品っていうのは、あの作品なんだろうなあ。
「そうですね。部長兼作家という立場にならされたので、一応そういうことになっていますね」
溜息混じりに苦笑する。あんな稚拙なものを誰が読むというのだろう。
「黒猫捜索網、柳の下、桃源郷の悪魔。全て読ませてもらっています」
そんな普通にタイトルを出さないでほしい。恥ずかしいし、彼女に言われると馬鹿にされている気がする。というかされているだろう。どうせこれから言われるのもお世辞だ。思ってもいないことを社交辞令的に並べられるだけだ。
「どうも。わざわざすいません。どうしようもない作品で」
「いえ、全て面白かったです。そして、四作目はいつ発表するんですか?」
「まだ、夏木さんと推敲している段階ですし、この間までテスト期間中だったので、来月には纏められるかと」
そうですか、と少し嬉しそうな声を出す森下さん。リアルな芝居だ。
「でも、改めて探偵部は良いですね。皆さん個性的で、才能溢れていて。とても好感が持てます」
才能でこの人は人を見ているのだろう。だから夏木さんや正志には好感が持てるんだ。きっと話してみたらあゆみちゃんだって好きになるに決まっている。
でも、あまり褒められたもんじゃないよな、そういうの。つまり才能が無い俺みたいなヤツは、もしかしたら人間扱いしないのかもしれないし。まあ、さすがにそれは思考が突飛し過ぎだけどさ。
「そういえば、三瀬さんは探偵部じゃないのですね。小説では彼も部員ですので、そうじゃないと知って驚きました」
「限りなくノンに近いフィクションですからね」
そうですか。と森下さんは呟いて、何やら思いついたよう。蠱惑的な表情をする。その舐められたかのような雰囲気に、思わず身震いをしてしまう。
「皆さんの優秀さは、どちらです?」
試されているのか。彼女は前にも同じような事を聞いたことがある気がするけど、何故そんなにそれが知りたいのだろうか?
「まあ、ノンフィクションですね。話したりすれば分かると思いますけど、俺を除いてみんな優秀です。特に直感的なもので言えば正志とあゆみちゃんの探偵両名。知識で言えば夏木さんがずば抜けてますね」
「あら? 貴方と麻上さんは?」
「久那は体力担当らしいですかね、正志によると。ただ、彼女だって直感は冴えてますよ。二話目を読んでいるなら分かりますけど、たまに意外な所から助言したりしますからね」
素人だからこその目線というのだろうか。たまに彼女は誰も考えなかったような突飛な質問で推理を進展させることがある。
「それじゃあ、貴方は?」
最も聞きたかったことはこれだとも言わんばかりに、森下さんは余韻と間を作って質問する。何でこんな会話をしなきゃいけないんだろう。別に俺が優秀じゃなくても良いじゃないか。俺が探偵部に居ることが嫌なんだろうか、この人は。
「俺は、優秀じゃないです。普通ですよ」
自分が常日頃から抱いている劣等感を、何故今再確認しないといけないのだろう? こんなことさせて、彼女は何が楽しいんだろう? 意味が分からない。
「そうなのですか?」
「普通だと思いますよ。まあ、普通なんて何を基準にしているのか分からないですけどね。正志を基準にしてしまえば、僕はかなり水準が低いでしょうし。何を優秀と捉えるかによっても変わりますけど、僕はそういう人間じゃないんです」
彼女の価値観を遠まわしに否定する。まあ、俺がそうではないかと思っているだけの価値観なんだけど。
「ふふ、やっぱり貴方も、普通、じゃないと思いますよ。普通、の高校生はこんな迂遠な物言いしません」
「それじゃあ貴女も、普通、じゃないですね」
「あら、そうですか? それはどう捉えて良いんでしょうね?」
「額面通りですよ。そんなに上品な物腰で喋る高校生なんて、居ませんよ、普通」
まるで作り物のように、さ。
「そうですか。私の環境ではこれが普通なので、意識しませんでした。確かに同年代の方、ああいえ、こういうのがいけないんでしょうね。クラスの子と一緒に喋っていると、なんだか違うな、と感じることはありますけど」
まるで日が暮れてしまいそうな、余韻と余白の効いた喋り方だ。遅くは無いけれど、もっと早く喋れないんだろうか?
「俺、森下さんが苦手なんですよね。つい劣等感のようなものを感じてしまう」
その言葉に面を食らったかのように、きょとん、とする彼女。
「私、そのようにはっきり言われたの初めてです」
「初めてが俺ですいません。ただ、結構長いこと喋ってて改めて実感しました」
俺は楽しいだけが良いのに、この人は毒がある。だから、嫌いだ。我ながら子供っぽいとは思うけど。
「そうですか。でも、私は嫌いではないです。いいえ、どちらかといえば、とても好ましい方です、玖類さんは。まるで年上の男性と話しているようで」
「それはどうも。でも、やっぱり貴女は普通じゃないですよ。苦手だとあからさまに言われたのに、それでも人を認めようとしている辺り、どこか突き抜けているというか。そういうの、普通じゃないです」
そんな歳で、人間性を評価しようとしている辺り、気持ちが悪い。
「怒れば良かったですか?」
「怒られるのは嫌いなので止してください。言っといてなんですけど」
本当ですね、と笑う森下さん。ああ、笑っていると、黙っていると、本当に綺麗な人なのに。
「探偵部の皆さん、とても良いです。入れてくださいと言えば入れてくれます?」
「あー、どうでしょう? 正志に聞いた方が良いんじゃないですか?」
「きっと、彼は貴方が判断するように言うと思います」
良く解っている。正志ならそう言うだろう。聡いな、この人は。向いているかもしれないけど、できればあの空間を壊したくない。これ以上俺に劣等感を感じさせる要因が増えてほしくない。ああ、なんて卑屈。
「まあ、本当に入りたいなら入部届けを出してもらえれば――」
「ふふ、冗談ですよ。私は天文学部ですし、何より私を苦手な貴方が、私を歓迎してくれるとは思えません」
全て見透かされてるじゃないか、畜生。解ってるなら言わなければ良いのに。
「良いですね本当に。貴方はとても素敵です。人と一線置いているからなのか、そういう対応、すごいと思います。まだ感情が出てしまっている辺りも、好感が持てます」
ああ、なるほど。こういう嫌味なのか。この人だって人並みのことをするんじゃないか、それがお互いに迂遠なだけで。
「それはどうも。ただ、そんなに好感が持てるだとか言われたら、俺だって男ですし、勘違いしてしまうかもしれないので止めてください」
「ふふ、冗談ばかり。良いですね、こういうの」
俺はちっとも良くなんかない。こういう言葉遊びにしても、毒が無い方が面白いに決まってるのに。
そしてまた沈黙が流れる。再度打順が回ってきた正志が、懲りずにホームラン予告をしている。こいつも飽きないなあ。
「玖類さんは、恋をしたことあります?」
気持ち悪い。何でこの人はこんなにも俺に話しかけてくるんだろう。さっさと戻れば良いのに。
「あると思うんですけど、それが恋かは解りません。どうなれば恋だという基準を知りませんので。だから無いかもしれないですし、あるかもしれません」
そうですか、と立ち上がる森下さん。ようやくどこかに行ってくれるらしい。
「私も恋したことないんです。どういうものなんでしょうね?」
どう答えて良いものか解らないまま、そうですね、とだけ返す。
それではご迷惑を、と森下さんはグラウンドの隣にあるテニスコートに戻っていった。何だかとても気疲れする時間だった。もしこんな時間を過ごすと知っていたら、打席の中で見学してたのに。こんな風に遠くから見学してるからこういうことになる。
結局、変化球の前に三振を取られた正志はこっちに走ってくる。元気だなコイツも。
「よお、ちゃんと見学してるか?」
「見ての通りだよ」
「ところで、さっき何を話してたんだ?」
汗を拭きながら正志は尋ねてくる。こっちを見てたのか。だとすると、他にも俺と森下さんが話しているのを見たやつが居るかもしれない。厄介だなあ。変な因縁をつけられたら堪ったもんじゃない。
「別にただの世間話だよ」
「そうか? お前なんだかやり辛そうにしてたから、何か言われてるんじゃないかと思ったんだが」
よくあんな遠くからそんなことが分かるな、コイツも。そして、また心配を掛けてしまっていたのか。少し申し訳ない気持ちになる。
「そんなことないよ。探偵部で出してる作品について話していただけだよ」
「ああ、だからやり辛そうだったのか。納得だ」
そう笑いながら打席に戻っていく正志。本当にコイツには頭が上がらないな。本当に探偵部のみんなは、俺と違ってできている。
結局、その日の体育は調子に乗った正志の挑発により、俺達のクラスは惨敗して終わった。
◇
二日後。学園には落ち着かない雰囲気が流れていた。
この学園はテストの結果が張り出され、更に各自にその順番を記した紙が配られる。
久那のように部活をやっている生徒は、この順位や成績次第では部活動に参加できなくなる場合もあるので、結果を待つ人間は異様に落ち着きが無く、それがこの学園に伝播してしまっているのだった。
別に俺は結果なんてどうでも良い人間だけど、それでもこの雰囲気には慣れることができない。
最後のホームルームの際に、その紙を配られて解散となる。とりあえず、いつものようにやることも無いので、惰性的に部室に行くとしよう。
いつもだったら揮発性の高い薬品のように消えてしまうクラスメイト達は、この日ばかりはもらった紙と睨めっこをして、一喜一憂をしていた。
部室に到着し、いつもの手順で珈琲を淹れながら手持ち無沙汰な時間に、さっき貰った紙を眺める。俺は大体いつも通りの成績と順位だ。
正志と夏木さんもいつも通りか。二十位以内には入って――、るんだけど、そのすぐ下、二十二位の所に何故か、麻上久那の文字があった。
とりあえず、また一位から見直していく。そして、やっぱり同じところに久那の名前。どうやら本当に、彼女は二十二位のようだった。
「うわぁ、マジだよ」
誰も居ないというのに、思わず声が出てしまった。
自分より十位も上な久那の文字を眺めながら、カップに珈琲を注ぐ。
戻ろうとした時、控えめなノック音の後に部室の扉が開いた。
「こんにちは」
夏木さんだった。
「こんにちは。とりあえず、珈琲で良いですか?」
丁度戻ろうとしていた所だというのを、自分のカップを持ち上げてアピールする。
「あ、すいません。頂けますか?」
「はい、了解ですお嬢様」
自分のカップを下ろし、紙を胸ポケットにしまい、彼女のカップに珈琲を注ぐ。
「どうぞお嬢様」
「ありがとう、セバスチャン。下がって良いわ」
はっ、と礼をしながら自分の席。彼女の隣に腰を降ろす。
「それにしても、順位表見ました?」
俺は胸ポケットから紙を出す。
「ええ、見ました。久那さん本当に努力されたんですね」
俺達と勉強している以外の時間も、勉強してたんだろうな。じゃないと、教えてた俺よりも上位ってのは変な話だし。偶々集中力とかが違っていたとしてもだ。
「これで、とりあえずは安泰ですね。最後の最後でまた泣き付いて来なければ良いんですけど」
三学期の期末で、進級を掛けた勉強会ってのも、あまり心臓によろしくない。
本当です、と優しく笑う彼女。どこかの人みたいに毒は無く、その笑顔は純粋に可愛い。
「そういえば、夏木さんも毎回すごいですね。お疲れ様です」
「ありがとうございます。今回は正志さんより少しだけ上でした」
普通に勉強している彼女より、毎回何もしていない(ように見えるだけかもしれないけど)正志は大体同じくらいの成績だ。そんなわけで毎回のように順位を入れ替える接戦を繰り返していた。まあ、どっちも勝負をしているわけではないんだろうけど。彼女みたいに少しは意識しているのかもしれない。
ぼう、と順位表を眺めていると、右隅にいつもは無い文字が書かれていた。
尚、小島由美子、尾野大輔の両名に関しては、数科目見込み点で評価。
小島さんって、夏木さんの友達のか。そういえば、腕が折られたって。逆の手でテストはさすがに受けれなかったのか? まあ、まだ昨日今日だしショックもあったんだろうな。尾野君は何でだろう? というか、一人ならまだしも、二人って珍しい気がする。
順位の無い空位の部分に居る二人の名前の隣には、前回十位と十八位の文字。前回との比較が自分の名前の横に載っているんだけど、そうか。二人とも頭良いんだな。見込み点ってことは、どうしても成績が下がってしまいそうだけど、久那と違ってそもそも点数を気にするような人間じゃないだろうし別に良いのかな?
珈琲を飲みながらそんなことを思っていると、扉がノックされ、勢い良く開いた。
「こんにちはー」
「うーす」
もちろん、正志とあゆみちゃんが――居るには居るんだけど、二人とも両手にすごい量の袋を持っており、その袋の中にはお菓子やらジュースやらが透けて見える。
「二人とも、今日は宴会だぜ!?」
「宴会ですよー!」
二人とも、きゃっほーい、と部室に入ってくる。いや、扉ぐらい閉めようよ。
俺は呆れながら扉を閉めていると、どさどさ、と机の上にばら撒かれる大量のお菓子。主に、スナック菓子やらチョコレート系のものやら。炭酸飲料やお茶まである。袋を見ると、コンビニじゃなくて近所のスーパーで買ったみたいだ。
「終礼終わって、すぐに呼び出されたけん、なんやろうと思ったら、宴会の準備でした!」
少し息が荒いあゆみちゃん。よっぽど重かったのか、楽しみなのか。まあ、どっちもなんだろうな。
「久那が頑張ったみたいだからな。テストも終わったし、慰労会だぜ!」
「慰労会ですよー!」
探偵両名はこれまた、きゃっほーい! とハイタッチしてる。ヤバイ。俺と夏木さんは取り残されている。さっきから何なんだ? きゃっほーいって。
「きゃ、きゃっほーい」
う、夏木さんがテンション合わせようと頑張ってる。それを察したのか、あゆみちゃんが両手を上にあげて、彼女とハイタッチしてくれた。良かった。変な間が生まれなくて。
「ほら、優司」
正志は片手を上に上げている。ああ、これはそういうことだよな?
俺はとりあえず、その手に自分の手を勢い良く合わせた。
「おい、きゃっほーい! が無いぞ!?」
「いや、そもそも、きゃっほーい、って何さ!?」
俺の言葉に一瞬沈黙が流れる。
「えっと、確か二人で買出しに行ったとですけど、二人で何だかテンションが上がってきまして、それで正志さんから言い始めて、私も楽しくなって、ですね」
しょぼん、としてしまったあゆみちゃん。なんだか悪いことをしてしまったみたいだ。うう、こうなったらしょうがない。
「ま、正志! きゃっほーい!」
「お、テンション上がってきたな? きゃっほーい!」
ああ、もう意味わかんない。大量のお菓子に囲まれてテンション上がってるんだろうか? まあ、こういうお楽しみ会的なノリ、俺も好きだけどさ。
にしても、きゃっほーい、って何だよ?
そうして昼部活は、きゃっほーい、と終わっていった。
◇
「うわ、何これ? うわ、何でこんなにお菓子あるの?」
とりあえず、全員で久那を驚かせようという意図の下、昼部活の時に久那が来ても部室に入れず、学食も早めに切り上げて、彼女が来るのを装飾しまくって待ってみる。
黒板にはでっかく、おめでとう久那。学年二十二位! と書かれている。
「うわ、恥ず! 半端な順位なのに! いや、嬉しいけど!」
まあ、確かに微妙かもしれないけど、彼女にしたら大健闘なわけで。その黒板には、この世のものとは思えない奇妙奇天烈な、推定動物がその文字を囲んで、彼女を祝っている。
俺ら男達は、推敲用に刷った原稿や、テストの答案用紙やら、果ては進路希望調査用紙を細長く切って、それをリング状にして繋げていき、天井から垂らした。真っ白過ぎて味気ないけど、色紙よりもずっと経済的だと思う。どうせ捨てるんだし。
「おい、久那、きゃっほーい!」
「お? おお? おおお! きゃっほーい! ありがとー!」
すげぇ、さすが久那だ。正志の振りに一瞬でついていった。隣を見れば夏木さんも羨ましそうにしてる。俺らには無いテンションだからなあ、ああいうの。
「久那先輩! きゃっほーい!」
「あゆみん! きゃっほーい!」
うーん、この流れってもしかして。
隣を見れば夏木さんも頷いている。これはそういうことだよな?
「久那さん。きゃ、きゃっほーい!」
「お、千草も!? きゃっほーい!」
頑張った。あんまり乗り切れてなかったけど、夏木さん頑張った。しょうがない。全員に見られてるし、やるしかない。幼馴染の力見せてやるぜ!
「久那! スーパーグレートウルトラキャッホーイ!」
「優司ノリノリじゃん! トロピカルフルーティーきゃっほっほーい!」
乗ってるわけじゃなくて自棄なんだけど、まあ良いや。
「でも、どうしたの、これ?」
「どうしたもこうしたも。お前を祝う為に準備したんだよ。一週間頑張ってたみたいだからな」
正志はそういうと、何故か俺を指差した。
「全ては優司のおかげだ、感謝しろ?」
意味が分からない。これを発案したのも、準備したのも正志なのに。
「これで今期の部費、ゼロだからな」
――はぁ?
「いや、ちょっと待って! ええ? 何言ってるの? はぁ?」
絶賛混乱中の俺を尻目に、正志は親指を立てる。
「大丈夫。印刷代くらいは取ってある」
「それは良かった。コピーカードくらいは、って、ちがーう!」
「ふっ、ノリツッコミか。さすが探偵部を纏める部長なだけはあるぜ」
ノリツッコミと探偵部の部長という関連性が分からないけど、今はそれどころじゃない。
「ってことは何? 二学期はもう本気で部費無いの?」
「無いわけじゃないさ。印刷代はあるし、何より印刷した四作目が売れれば、それがまるまる部費じゃないか」
そういうのはね、正志。とらぬ狸の皮算用って言うんだよ。というか、道理でいっぱいお菓子買ってきたと思ったんだよな。こいつ個人の資産から捻出したとは思えない量だし、これ。するにしても、大盤振る舞い過ぎというか。
「まあ、ともかく。今日は盛り上がって行くぜ! きゃっほーい!」
俺と夏木さんを除いた全員が、きゃっほーい! と腕を上げる。もう、意味が分からない。
「だ、大丈夫ですか? 玖類さん」
盛り上がっているみんなに隠れて、小声で話しかけてくれる夏木さん。うう、優しいなあ。この人だけだよ、俺を気遣ってくれるのは。
「大丈夫です。ただ目の前が暗くなってるだけ、と言いますか」
「それは大丈夫なんでしょうか? あ、飲み物! 飲み物取ってきますね!」
ぱたぱた、と小走りに机に向かう。うう、優しいなあ。こう弱っている時に優しくされると、真面目に効く。
「はい、お茶です。それとも炭酸が良かったですか?」
「うう、お茶で良いです。お茶最高っす」
「元気だしてください。ほら、原稿頑張って売りましょう! 来月には文化祭がありますし、そこで沢山売れば大丈夫ですって!」
必死に励まそうとしてくれる夏木さん。うう、しょうがない。もう無いものは無いんだから。それに、この部に部費なんてあっても、飲料関係にしか使わないんだ。別に良いか。む、そう考えてたら、彼女の言葉もあってか、もうどうでも良くなってきた。こういうのが、もしかしたら、きゃっほーい、ということなのかもしれない。何だ、むしろこれは悟りの境地に達した人間が言う台詞なのかもしれないな、案外。むう、この世界の真理を悟り申しました、きゃっほーい。ってな感じに。エウレカー、ってのと同じなのかも、みたいな。いや、無いな。
勝負は来月の学園祭か。ただ、学園祭が終わったらまたすぐに期末なんだよな。二学期は本当にテストの間隔が狭いから嫌になる。まあ、範囲が狭いから点数取りやすいんだけどさ。
にしても、今年の学園祭は、うちの部活なにやるんだろう? 前回は正志がグラウンドに十角ある館を建造しようとして怒られたもんな。また無茶なことしなきゃ良いけど。
そんなこんなでお楽しみの夜は更けていった。特に主役の久那はみんなからはやし立てられ、実に楽しそうだったのが印象的だった。
◆
バキッ
◆
すぐに来いと、実に簡素なメールが正志から入ったのは、消灯時間が過ぎた二十四時だった。また突発的な遊びの提案だろう。夜に遊ぶと次の日がきついんだけど、まあ良いか。それよりも仲間はずれにされたほうが、精神的にきついし。
とりあえず巡回している警備員をやり過ごして、俺は正志の部屋に向かう。静かにノックしてノブを回したら開いていた。ゆっくりと音を立てないようにドアを開けると、何故か正志だけじゃなく、夏木さんやあゆみちゃんの姿があった。正志と相部屋の藤崎君はどこにも居ない。席を外してもらっているのだろう。にしても、こんな時間に女子が、しかも男子寮に居て良いんだろうか?
にしてもみんな静かだなあ。そりゃあ、夜だから騒げないんだろうけど。
俺が部屋に入っても、全員無言だったことで、今から遊ぶというテンションではないのがすぐに分かった。
そして、部屋にはいつもの久那の姿が無い。
久那どうしたんだろう。
「優司」
久々に、正志の真面目な声を聞く。どうしたっていうんだろう?
「他のみんなにはもう言ったが」
そこで歯切れ悪く言葉を濁す正志。どうしたって言うんだよ。
聞き返そうと思った矢先、正志は沈んだ声で。
「久那の腕が折られた」
と意味が分からないことを言った。
その日から、俺達の歯車は狂ってしまったのだ。